ひとりごと
2024.6.20
今月から、ナショナルジオグラフィックTVで、マリアナ・ヴァン・ゼラーさんの新しいドキュメンタリー番組が放送されています。
「潜入!ブラックマーケットの実態」もすっごい内容だったのだけれど、今回の「潜入!アングラな闇組織を暴け」も(いちいちもやもやする邦題の軽薄さとは裏腹に)強烈な内容になっています。だって、しょっぱなから題材が暗殺者なのだもの。
その第二話である「セクストーション」をつい先日観まして。
セクストーションは日本語に訳すと性的脅迫。被害者にインターネットを通じて裸の写真なり動画なりを送らせ、それを使って脅迫してカネを奪うというもの。
たいていは女性が(あるいは女性を装って)被害者の男に接触。あたしと遊ばない?的なやり取りから始めて、拾い物のポルノ動画などを、これがあたしよみたいな感じで送り、あなたのも見せてよと誘導して、写真なり動画を送らせるという手法らしい。
このドキュメンタリーでは脅されてカネを払い、なおも脅迫され続けて追いつめられ、自殺してしまった二十代前半の男性が取りあげられています。他にも同様に自殺した十代の若者が多数います。
彼らの失敗は若さと未熟さゆえの、ちょっとやっちまった的なやつ。でも死ぬほどじゃないやん。と言ってくれる友人や家族が周囲にいたはずですが、被害者は恥ずかしさもあって相談もできず、最悪の手段で尊厳を守ろうとしたのでしょう。それをばかだなの一言では済ませられない。
若さゆえのちょっとした失敗にすぎないのに、それが世界中に拡散されて、未来永劫残るという現代社会は、生きづらいよな。
まったく同じではないし、だまされたわけでもないのですが、番組を観ていて自分の昔のできごとを思いだしました。
当時はまだ十代だったかな。ポケベルの時代です(古い!)。知らない番号から着信があり、普段なら無視するところですが、何を思ったのかその番号に電話をかけてみたのです。間違えてるよと言うためだったのですが、どうやら相手は無作為にポケベルに番号を送って返信を待っていたようで、少しのあいだ顔も名前も知らない高校生の女子二人としゃべってしまいました。
そのときは会おうとか何かを買えとかカネを払えとか、そんな会話にはならなかったのですが、もしかしたらそういう会話になっていたかもしれないし、十代の浅はかなオイラはあほづらをさげて会いに行っていたかもしれないし、数人の屑どもに囲まれて金品を脅し取られていたやもしれません。
誰だって若いころは失敗ぐらいする。十代の失敗をオイラみたいなおっさんが浅はかの一言で片づけてはいけない。セクストーションで自殺した若者の存在を知り、そんなふうに思います。
自分の昔の話を思いだすのと同時に、観ていて思ったのは、各種ソーシャルメディアを運営する企業に責任はないのかということ。少なくとも対策ぐらいは講じるべきじゃないのか。
セクストーションは会話だけでは終わらずに写真なり動画なりを要求するやん。要求の手始めに自分の裸と偽って拾い物のポルノを送って信用させるやん。その動画を不適切と判断して警告する仕組みぐらいは作れるんちゃうの?
ダイレクトなメッセージでのやり取りを運営側が覗くのはプライバシーの侵害だし、ヒトの眼で世界中のユーザー間のやり取りを監視するのは無理があるけれど、こういうことにこそ人工知能を活用したらいいんちゃうん? ユーザー間のメッセージを人工知能が監視して、ポルノとおぼしきものを検知したらセクストーションの可能性ありと警告したり、何ならやり取りを凍結することだってできそうやん。多額の開発資金を注ぎこんでるんやし。
詐欺は、ただ誰かを騙す犯罪で、騙されたほうも愚か。そんな雰囲気があります。私もちょっと前はそんなふうに軽く考えていました。でもかつてのオレオレ詐欺、現在では特殊詐欺と呼ばれている、おもに高齢者に親族を装って近づいてカネをだまし取るあれを取りあげた番組を観て、考えを改めました。
騙された高齢者の中には自殺した人がいるのです。
家族に責められたり「ばかだなあ」と言われた被害者が、自分の取り返しのつかない失敗に耐えられずに死を選んでしまったそうです。
信じるというのはヒトとヒトの関係を構築するうえで、この社会を形成するうえで最も大事な要素です。それに、ヒトは本質的に他人を信じたいものだと思っています。その信じようとする気持ちを踏みにじる詐欺、もっと大きく言うと嘘ってやつは、相手の尊厳を傷つける非道な行為なのです。おおげさに聞こえるかな? でもそのくらい重いものだと考えています。だから嘘はあかんのよ。
嘘のない社会であってほしいよなとナショナルジオグラフィックTVを観ながら、そして東京都知事選を観ながら痛感している今日この頃でございます(その公約、本当に実行できるんやろな)。
2024.6.11
ずっと疑問に思っていたのです。
なぜ、阪急宝塚駅に阪急バスだけでなく阪神バスが乗り入れているのか。合併前からずっと。宝塚は阪神の路線からかなり離れているのに。
『開封!鉄道秘史 未成線の謎』という森口誠之さんの本に詳しく書かれていました。
どうやら大正時代、武庫川の改修工事にともなって阪神系の尼崎宝塚電鉄というものがつくられようとしていたみたいです。ざっくり言うと尼崎と宝塚を結ぶ鉄道路線。
ところが、いろいろと厄介な問題が出てきたそうで。鉄道敷設の免許申請の時点で怪しげな動きがあって競合の阪急が反発していたり、途中でカネのかかる立体交差を建設しないといけなかったり、途中駅の設置場所について自治体からどんどん誘致が来てまとめられなくなっていたり、尼崎の都市計画道路の整備とぶつかったり。
結局、資金がなくなった尼崎宝塚電鉄を阪神系のバス会社が救済することになり、線路用地として確保していた土地を舗装してバスを走らせるようになり、やがてその道路を県が買い取って無料開放されて、現在の県道42号線、尼宝線と呼ばれる道路になったそうです。
その流れで阪神バスは今も尼崎と宝塚の間を運行しているとのこと。なんかこういう歴史っておもしろいよね。歴史そのものもおもしろいし、歴史を知ると仮定を考えたくなって、もし尼宝電鉄が敷設されていたら、とかさ。尼崎と宝塚歌劇場を直接結んでいたらどうなっていたか。ヒトの流れから経済活動から今とは大きく違っていたのかも、なんて。そんなことを考えながら地図をながめていると、これまた楽しくなるのです。
という鉄道ものの本と同時進行で『E=mc²のからくり』という本も読んでいます。
とうとつに現代物理学とか量子物理学とか特殊相対性理論に目覚めまして。目覚めたというか、名称は知っているけれどはたして何なんなのかという理解が追いついていなかったので、見えないものを見ようとして望遠鏡をかついで天体観測したくなるがごとく(Bump Of Chickenより)、知らないものを知りたくなるのは性であり業なのです。
で、この本を書かれたのが山田克哉さんというかたなのですが、このかたの文章と説明がわかりやすいのなんの!
中学生とは高校生でこういう本と出会っていたら、もしかしたら物理の道に進もうとか思っていたかも、なんて考えてしまうほどに明確で、物理学に魅力を感じてしまいました。学校教科書も、このくらいおもしろかったらなあ。
同時に、この本を十代のころに読んでもはてさておもしろく読めたのだろうか、なんてことも思ったりしつつ。子供のころの脳ってほんと未熟やものね。だから大人はきまって、学生の頃にもっと勉強しておけばよかった、なんて言うわけですが。その例にもれず私もなのですが。ええ。
まあ、こういうのは知りたくなったときに学ぶのがいちばんよね。そうじゃないと頭に入ってこないもの、知識なんて。
年齢やら立場やら状況やらは言い訳で、興味が湧いたら調べて学ぶ。そんな姿勢で、常に知識を更新していたいなと考えながら、今日も近くがよく見える眼鏡をかけて本を読んでおるのです。
2024.5.7
以前から興味のあった小説を最近になってようやく読み進めておりまして。多少のネタばれも含んでしまいつつ書いていこうかなと。
『ドローンランド』トム・ヒレンブラントはドローンで情報を収集できるようになった世界の物語。ドローンによる監視社会という側面と、その高性能ドローンを使って事件現場の情報を全方位的に収集することで精緻な実況見分が可能になった捜査の描写が見どころ。
これは早くに読んでおきたかったなあ。拙著『精密と凶暴』では幽体離脱と幻覚を利用してリアルタイムの客観視によるアクション表現を描いたのだけれど、『ドローンランド』では無数の小型ドローンが使われていて、発想がやられたなあ。先にこれを読んでいたら『精密と凶暴』の描写はもうちょっと変わっていたかも。
すごく読みやすくて、読み始めたらとまらなくなり、おもしろかったです。
『異常-アノマリー』エルヴェ・ル・テリエは、乱気流に巻きこまれながら無事に着陸した旅客機とまったく同じものが三ヶ月後に突如現れて、乗客も乗員も全員、三ヶ月前に着陸した旅客機とまったく同じ人たちだった、という筋。
同一の旅客機が現れて、その存在が知られたら世間が大騒ぎになるからと米軍が必死に隠ぺいする部分はミステリーだし、旅客機の乗客それぞれの人生を追いかけていくところは群像劇だし、中盤で同一人物同士を会わせるという決断になるのだけれど、自分とまったく同じ人間と出会ったときに人はどういう反応をするのかという部分は思考実験であり、人間ドラマでもあり。
この中盤以降がいいんですよね。もし自分と出会ったら。しかもその自分は三ヶ月先の、自分が知らない人生を歩んでいて、生きかたが大きく変わっていたりもして、そんな自分と向き合ったとき、はたしてどうするのかという描写のこまやかさがすごい。考えさせられるし惹きつけられる。名作だし傑作。
なのだけれど。
最後のオチの部分が、何というか記憶にねっとり残る。賛否両論あるだろうし、じゃあおまえは賛か否かどっちだと問われると、賛であり否でもあるとしか答えようがない。
物語の終わらせかたとしては、これでいいのかと思うのだけれど、忘れられないという意味では作者にまんまとやられたわけで、結果として「あんたすげえや」と言うしかないのです。そういう意味ではやっぱり傑作。
『ガラスの顔』フランシス・ハーディングは、めちゃめちゃ平たく言うと、地下世界に迷いこんだ少女の冒険の物語。
これがめっちゃ良かった!
出てくる要素がとにかくおもろしい。〈面〉というつくられた表情でしか気持ちを表現できないとか、その〈面〉をつくるフェイススミス。さまざまな職人が暮らす洞窟。地下世界の光源として使われている虫取りランタン。いちいち気難しくてつくるのが大変なチーズ(爆発するからね)。記憶を消したり再現してしまうワイン(現実に呑みすぎたら飛ぶよな、記憶)。他にも神出鬼没の泥棒クレプトマンサー。地下世界の地図をつくっているカートグラファー。
この地図つくりの人たちは奇妙な風貌と独特の言語表現を持っていて、五分以上話していると相手の言語の表現に呑みこまれて帰ってこれなくなるのです。話を聞いている間は支離滅裂な話が理解できるけど、現実に戻ると理解していたことがわからなくなってもどかしくなったりして、その描写が読んでいてそれはもう楽しいのよ。
そして何よりもやべぇって思ってしまったのが右側と左側で存在が分裂してしまった大長官!同一の存在なのに右と左で考えかたがまったく違うという。その発想がすごい。
そんなおもしろ要素満載な地下世界カヴェルナを、異質の顔を持ったネヴァフェルが駆け抜けていくわけです。
現実から材料を集めつつ、でも誰も見たことのない世界を文字で構築する。これぞ幻想文学。そして物語としてとにかくおもしろいというのが、よいのですよ。500ページ弱の、濃厚で、めまぐるしく展開する物語への没入感は、映画の尺では得られない充実感であり、それでいてドラマの一シーズンのように一話完結のエピソードを交えていては得られない疾走感でもあったりして、本だから、小説だから、長編だからできるおもしろさ。やっぱり小説っておもしろい!
そんなふうに楽しみつつも、なぜか今は『開封!鉄道秘史 未成線の謎』森口誠之著を読んでいます。計画はありながら完成しなかった鉄道路線について書かれている本です。
なんかね、鉄道への興味がどんどん増しているのですよ。時間とカネが許せば鉄道旅に出たいな、などとちょいと本気で考えてしまう程度には。
2024.4.24
ひきつづきドキュメンタリーを観ているのです。
今回はナショナルジオグラフィックTVの『フォトグラファー ファインダー越しの世界』という、世界的に活躍する写真家を取りあげた作品。
写真家という題材は、これぞナショナルジオグラフィックTVならでは。内容がまたすばらしいのです。写真家の仕事の様子から作品までがドキュメンタリーにおさめられているのですが、世界トップクラスの写真家の作品だから、出てくる写真がとにかくいちいち眼を奪われるのよ。
同時に、写真家の人生についてもほりさげていて、そこにはたっぷりとあるんです、物語が。
中でも世界的な名声を得ているダン・ウィンターズの、写真を通してから気持ちを表現できないがゆえに息子との関係がうまくいかなくて、幼いころから撮り続けてきた息子の写真を並べたときに交わす親子の会話がね、苦しくて痛いんですよ。
人間って完璧じゃないからおもしろいのだけれど、不完全であるがゆえに他者を傷つけることもままあって、それが取り返しのつかないことになってしまったりもするわけで、悲劇と言うと当人には失礼かもしれないけれど、悲しいよなあと。
それとイギリス系ガーナ人キャンベル・アディの、ガーナ出身で厳しい信仰を持つ家に育った黒人であるがゆえに、クィアだと告白してからの家族との断絶とか、自身の個展でしばらく話していなかった母親を呼ぶ場面は、いいのよね。その母親がこれはあなたなりの聖書なのねと理解を示すところとかさ。
他にも海洋生物の保護活動をしながら写真も撮影しているポールとクリスティーナの、いやいくらなんでも動物が近すぎるでと言いたくなる魅力的なポールの写真とか(撮影していて気づいたら450キロぐらいの熊が三脚で寝ていたそうです)、卵がヒヨコになる過程を撮影したアナンド・ヴァルマとか(血管とか心臓ができあがってくのよ)、冒険家でもあるから誰にも撮れない場所からの撮影を可能にしているクリストル・ライトとか(この人にも重いけれど魅力的な物語があるのです)個性的で、おもしろい人たちがいっぱい出てきます。そんな中で最も印象が強かったのはムハンマド・ムヘイセン。
紛争地帯に出向いて撮影をする報道写真家だったけれど、自分の興味は難民キャンプなどで生活する人たちにあって、その人たちの生活を変えたいと写真を撮り続けるわけです。その写真には難民としての過酷な生活と、それでも必死に生きている姿が捉えられていて、特に子供たちの笑顔の写真なんかがさ、胸を打つのですよ。
その中の一枚、トラウマを抱えた少女の写真が世界的に注目を集めて、その子に多くの言葉や贈り物が寄せられるようになって、何かが変わるかもしれない、少なくともその子の人生を写真で変えられるかもしれないと期待するのですが、そんなことにはならず、七年経っても同じキャンプで生活しているという現実が、ね。
不条理まみれなのが現実ってやつで、不条理に対して文句を言っても何も変わらなくて、あきらめてしまうからやっぱり現実はふざけた様相のままで、さりとてふざけんなボケって声をあげても動いても何も変えられなくて、現実は不条理のまま。
私は物語が好きで、物語の力を信じています。『フォトグラファー ファインダー越しの世界』に登場する写真家たちの物語もそうだし、空想から生まれた物も、それぞれにとても強い力があると思っています。そして物語には希望がなくてはいけない。ただ不幸なだけの物語なんて誰も読みやしないもの。希望とか夢があるからおもしろくて、受け手の心を動かす。そういうものだと思うのです。
不条理な現実ってもんに対して、せめて物語を使って復讐する程度には、期待を持っていたいよ、あきらめずにいたいよな。そんなことを観ていて考えたりしました。戦争、いつまで続くんやろね。
そんなおいらの個人的な気持ちはともかく、このドキュメンタリーは本当に良かったのでおすすめ!
2024.3.22
先日、熊本県で長年おこなわれていたアサリの産地偽装問題について告発したドキュメンタリーを観まして。
輸入されたアサリは市場に出荷する前に、一度干潟にまく蓄養という工程を経ているそうです。これによって鮮度を戻して、おいしい状態で市場に出すらしいのです。
で、海産物などの原産地の表記には、産地国よりも長い時間をかけて養殖などをすればその土地の表記にしてもよいという決まりがあるそうで、熊本のアサリを取り扱う業者はその制度を悪用。書類を改ざんして蓄養の期間を長く表記することで中国産のアサリを熊本県産と偽って卸していたという。今年の初頭に熊本のテレビ局(だったかな)が報道して発覚し、熊本県知事や農林水産大臣が会見をおこない厳格化にいたった、というのが事のあらまし。
じゃあなぜ産地の偽装をしたのか。というのが問題で。
馬鹿正直に漁に出て、養殖して、獲って出荷するよりも中国産のアサリを輸入して一週間ほど蓄養して(そもそも蓄養は一ヶ月もかけないらしいアサリが死んじゃうから)売ったほうが手軽にかせげるから。という単純な話でもないらしく。
熊本県のアサリの漁獲量は年々減っていて、獲りたくても獲れないみたいです。アサリ漁師や取り扱う業者は事業を維持するために中国産のアサリを輸入して、でも中国産じゃ売れないからと、蓄養を経たからいいやろとばかりに熊本産と偽り、それが常態化して、長年にわたって産地偽装が続けられていたとか。二週間ほど前に観ただけなのでうろ覚えです。ざっくりです。
この問題が発覚したあと、取材に応じた業者の社長さんは産地偽装を認めたうえで、親から事業を受けつぎ、自分がこの業界に入ったときにはすでに産地偽装はおこなわれていて、おかしいという認識もなかったとか。
生業にしている人からすれば死活問題なわけで、やらざるをえなかったのでしょう。が、獲れないなら事業の方向を転換するしかないんちゃうの、と利害が一切関係しない部外者の私は無責任にもそう言いたくなるのですが、今回言いたいのはそこではなく。
海産物の不漁はアサリだけじゃないよね。ウナギとかサンマとか、以前は安かったものが獲れなくなって、値段がつりあがって。その原因は海水温の上昇などの気候変動だったり、中国の経済発展にともなう漁獲量の急激な増加だったり、そもそも海から大量にかっさらう現在の漁業の仕組みにも問題があるかもしれませんが、オイラが言いたいのはそこでもなく。
このドキュメンタリーを観ていて思いだしたのです。イカナゴのことを。
毎年、春になると明石市や淡路島などではイカナゴを炊く風習があります。くぎ煮と呼ばれるやつね。でも毎年のようにこの時期になるとイカナゴは歴史的な不漁で、と関西では報じられます。値段もどんどんあがっています。
でも、去年ぐらいまでは瀬戸内海から離れて、山すらも越えた兵庫県内の大手スーパーの、鮮魚売り場に並んでいたのですよ。イカナゴが。二キロのパックで。
あのね、イカナゴを家で炊く風習は瀬戸内海沿岸、明石周辺のもんやで。山を越えたところで炊く家庭はなかなかあれへんで。
当然のことながら山と積まれたイカナゴの二キロパックは夕方になっても売れ残り。売れ残ったものは店で炊いて、くぎ煮としてパック売りをしていたのでしょうが、イカナゴは鮮度が命なのです。
売り物にするにはちゃんと眼がついていないといけない。鮮度が落ちたり炊きかたがまずいと眼がはずれます。小さく縮んで曲がっているのみならず(ここまで通常のくぎ煮)、眼の取れたイカナゴさんのお姿はなかなかのものです。その眼だけが転がっていたりもします。大量に。イカナゴの眼の深淵をのぞくとき、イカナゴもあなたをのぞいているのだ。はい、それはともかく、私は気にしないのですが、まず売り物にはならないでしょう。
売り物として見栄えのよろしくないものはどうなった? どうなったんでしょうね。廃棄かな。せめて従業員が持って帰って家で食べてくれていればよいけれど。そんなこんなですから、さすがに今年は並んでいませんでしたね。
獲れないのなら、文化も風習も理解していない大資本なんぞに卸さんでいいやんか。明石の市場「魚の棚」だけで売ればいいやん。でかいスーパーも、よくわからんもんを買いつけるのはやめようぜ。あんたんとこは恵方巻きでも売れ残りでやらかして批判されていたやん。ということが言いたくてたまらなくなったわけです。
資本主義の国だからね。カネを持っていれば買えるわけです。それを許さないとなると社会主義国家であり共産主義になりかねない(日本が世界で最も成功した社会主義国家だと評されているのはともかく)。
でもさ、守るべきものってあるやんか。どんな要因があるにせよ、獲れないのは事実だもの。だったら少ない漁獲量を地元だけに卸すとかすべきじゃない? 獲れなくなる前に何とかしないと、いよいよとなったら獲ること自体が禁止になりかねないもの。
イカナゴもそう。アサリもそう。ウナギもサンマも。他の海産物も不漁で買えなくなる日が来るかも。あたりまえのように国産の安いものを買っていられたのは、けっしてあたりまえじゃないということを買う側も自覚して、考えなあかんよなあ、と思い知らされました。
アサリの話に戻るけど、今回の報道を受けて熊本産のアサリは売り場から姿を消しました。国産のアサリはどこにもない。ほぼすべて中国産。獲れないんだからしょうがない。これが現実。熊本のアサリ業者は完全に信頼を失ってしまいました。一度ついた嘘は消えませんからね。これからが大変でしょう。でも獲れないなら獲れないなりに策を講じて、海を育てて、漁獲量の回復に力を注いで、熊本県産というブランドを確立してほしいなあと願っています。
前述の、問題が発覚したことで取材に応じて偽装を認めた、親から事業を受けついだ会社の社長さんは現在、中国産かつ天草蓄養のアサリと表記して売っているそうです。売値はかなりさがっているうえ、買い手もなかなかつかないみたいですが、がんばってほしいなあ。
でもその中国産かつ天草蓄養の表記で、気になったことがありまして。
その会社の社長さんは、最初にこの問題が報じられた数年前の時点で偽装はやめるべきだと判断し、以前から中国産かつ天草蓄養のアサリという表記にして出荷していたそうです。
そう、数年前です。問題が大きくとりあげられたのは今年の初頭だけれど、数年前にはアサリの産地偽装のドキュメンタリー第一弾が放映されていたのです(私が観たのは第二弾)。
でもそのときは全国的に報じられることなく、農林水産省も熊本県も具体的な対策に乗り出すことなく、アサリの産地偽装はひきつづきおこなわれていたそうです。
なんか、もやっとするなあ。
そうそう。もうひとつ、もやっとする(あるいはさせる)ことがあります。
実は私、アサリはちょっと苦手なのです。
ここまで長く語っといてそんなんかよ、と言われそうですが。別に嫌いじゃないんです。味は好き。香りも好き。パスタのボンゴレはロッソもビアンコも好き。酒蒸しも好き。
ただ、砂がね。
熊本産とか、他の地域産でもよいのですが、手ごろな買いやすい価格でアサリが売り場に並ぶ日が来て、今日書いたことを覚えていたら、納得できる砂抜きの方法を模索します。まずはそこから。
いや、ほんと味は好きなんですよ。ええ。
2024.3.14
ここ一ヶ月、すきあらばドキュメンタリーを観ていました。
手始めはディスカバリーチャンネルの、イドリス・エルバがキックボクシングの試合に挑む『蹴撃!キックボクサーへの道(原題FIGHTER)』。文字通り、イドリス・エルバがかぎられた時間でトレーニングを積んでプロのリングで戦うというもの。
イドリス・エルバは元々キックボクシングをやっていたそうで、プロのリングに立つのが夢だったとのこと。その夢を叶える番組とも言えるのかな。
日本に来て、沖縄で空手の修業をしたり、K-1重量級の選手とスパーリングをやったり、タイでムエタイの修業をしたり。プロとして格闘技のリングにあがる覚悟とか、格闘技のトレーニングの過酷さが映像におさめられていて、見ごたえばっちり。
さすがにK-1重量級選手がスパーリング中に二度のローブローを入れたのは仕込みだと思いたいけどね。その後にイドリス・エルバが闘争本能をむきだしにする流れもふくめて、ある種の演出だとね。
過酷といえば、ナショナル・ジオ・グラフィックの『前人未到!過酷なアークティック・リサーチ(原題Arctic Ascent with Alex Honnold)』もすばらしいドキュメンタリーでした。
ロープなしでのエル・キャピタン登攀を撮影した傑作『フリーソロ』のアレックス・オノルドが、チームの仲間とともにグリーンランドの、人間が立ち入ることのできない場所へおもむき、気候変動の調査をおこなうというもの。
個人的な見どころは、断崖での岩の採取。撮影だけならドローンでも可能になったけれど、岩を削って採取するとなると、どうしてもその場所まで行かなくちゃいけないわけで、これぞフリークライマーの仕事!
作品の趣旨としては、氷河の調査と並行してアレックスとチームがまだ誰も登ったことのない崖に挑むという流れになるので、気候変動の部分は少なくなってしまうのだけれど(同行している科学者が魅力的なので、その人を中心にした岩石調査のドキュメンタリーも観てみたい)、それはそれとして最近は競技のフリークライミングもちょこちょこ観ているから、自然の崖を登っていく姿は、それだけで映像としての力があって見入っちゃいました。
そしてスポーツがらみの(という繋げかたはこじつけかな)ドキュメンタリーで最近まで放映されていたのが『ショーン・ホワイト絶対王者の軌跡(原題The Last Run)』。
これが、めちゃくちゃよかったんですよ!
プロの大会で充分すぎるほどの結果を出しているショーン・ホワイトだけれど、オリンピックで金メダルを獲得したことは人生が変わる出来事だったそうです。
ハーフパイプはプロの競技として確立されていて、スポンサーもついていて、トッププロは競技だけで生計を立てられるようになっている(はず)。それでも世間ってやつに自分を認めさせるにはファン以外の多くの人、世間というやつが注目するオリンピックという舞台で結果を出すことが重要だったみたいです。
最初の金メダルで人生が変わったと語るショーンの嬉しそうなこと。
このドキュメンタリーは、その後も冬季オリンピックの話を中心に組み立てられています。三大会で金メダルという偉業。でもその裏には練習中の怪我があったり、若い選手の台頭があったり、それまでショーンにしかできなかった技を多くの選手もやるようになって、平野歩夢などのショーンにもできないような難しい技を出せる選手も出てきて、勝てなくなって悩んで葛藤して。
そういった心理が、ちゃんと本人や家族、サポートしていた周囲の人々の言葉で語られています。映像もすべて当時のオリジナル。再現ドラマなんかなし。
これぞドキュメンタリーですよ。
感動の実話を映画化!みたいなのをすべて否定するつもりはないです。映画『グリーンブック』とか、ものすごくよかったし。
でも映画化と同じくらいにドキュメンタリーもつくって流してほしい、と思うのです。
やっぱり当事者本人が語る言葉には説得力があります。ショーンが昔の楽しい思い出を笑いながら、あるいはつらいことを表情をくもらせながら話すのは、それだけでひきつけられるのです。映像としてエンターテインメントたりうると思うのです。
とか言っちゃうと他人の人生を娯楽あつかいするなって怒られそうだけれど、興味深くて楽しいのだからしょうがない。本も映画も楽しいから読むもの観るものだと思うもの、オイラ。当事者のインタビューが中心だと変な脚色もないしね(私が映画『ボヘミアン・ラプソディ』に乗りきれないのはこれ)。
やっぱりドキュメンタリーっていいもんやなと思う日々でございます。
そんな感慨にふけりつつ先日、深夜に酒を呑みながら民放地上波をザッピングしていたら、TBS系列でしょうか、熊本のアサリのドキュメンタリーをやっていました。
これは単純におもしろいとは言えない重大な問題提起がなされた報道作品で、今回の「ドキュメンタリーっておもろいぜ!」という文意からはずれてしまうので、また別の日に書きます。
2024.2.10
昨夜、たまたまCSテレ朝をつけたら世界水泳ドーハ2024の生放送をやっていまして。
競技は3メートル飛板飛込で、日本代表の榎本遼香選手は11位だったのですが、試合後に解説をされていた馬淵優佳さんと榎本選手の音声でのやり取りが、この二人の関係を存じあげていなかったのですが、よかったのですよ。
それまで解説モードでていねいにしゃべっていた馬淵さんが(しゃべりがうまい、この人!)、急に砕けた口調になり、
馬淵さん「日本に帰ったら何を食べたい?」
榎本選手「お寿司。生ものをずっと我慢していたので。だから連れてってください」
馬淵さん「行こう!」
からの、榎本選手が「馬淵さんの声を聞いて安心しました」と感極まって涙を流してしまい、馬淵さんが完全に先輩の口調で「泣かない!」とたしなめるという展開でして。
こういう選手の素のやりとり、競技の緊張感があるからこそいいんですよね。あとで調べてみると、馬淵さんは一度競技を引退したあと榎本選手に3メートル飛板飛込をペアでやらないかと誘われて現役に復帰し、でもパリ五輪の代表に選ばれず再度引退を決意したとのことで、一人でドーハに行った榎本選手と、日本で世界水泳の解説をしている馬淵さんという構図がね、物語がありますよね。ナラティブですよ。
3メートル飛板飛込がさほど注目されていない競技だからなのか何なのか、地上波でやっていなかったんですよね。少なくとも関西では。CSテレ朝でしかやっていなかったんですよ。
地上波で流してほしかったなあ。
以降の、明日からだったかな、世界水泳2024は地上波でも放映されるみたいなので、時間が許すかぎり観てみようかなと思っています。
とはいえ明日はCSテレ朝で新日本プロレスですが。あと、録りためたドキュメンタリーものを堪能するのです。
2024.2.9
CNN日本語版のニュースを読んでいたら、香港の多国籍企業に勤める会計担当者が詐欺グループに約38億円も送金してしまうというニュースを見つけまして。
そのニュースがこちら。
詐欺グループは会計担当者を騙すためにビデオ通話を用いて、最高財務責任者になりすましたとのこと。ん?ビデオ通話で?騙す?どういうこと?と首をかしげつつ記事を続けて読むと、なんとこの詐欺グループ、ディープフェイクで最高財務責任者や同僚の姿と声をつくりだして、それでビデオ通話をおこない会計担当者を信用させたという。
それは信じてしまうわ。どうにもできんわ。
ディープフェイクの悪用は以前から問題視されていたけれど、とうとうここまでになるとはね。おそろしい世の中です。
とまあ、時間の空いたときにはCNN日本語版などに眼を通していたりします。意識を高く持とうとかじゃなく、単純におもしろいから。日本では報道されないことにも触れられるからね。
でも今月末で日本語版アプリのサービスは終了とのこと。
ロイターの日本語版アプリも去年とかに終了していて、ロイター同様にCNNも「今後はブラウザでどうぞ」と案内されていました。アプリの運用ってカネがかかるのかなあ。広告収入の問題とか?あるいはアップルかグーグルのプラットホームの下での報道には不都合とか不自由があるとか?
どうであれ、便利だっただけに残念。今後もブラウザで記事は読むつもりだけれどね。
アプリといえば、ソーシャルメディアも何だか騒がしくなっておりますな。ブルースカイという、あれ。招待制を廃止したとかで、今後はユーザーも増えていくのではと目されています。
ソーシャルメディアに対しては利便性や楽しさは認めつつも、どうにも乗っかりきれないもやもやを抱いていたのですが、ツイッターがXになってからの、トレンドにわんさかぶらさがる「違うアカウントなのにまったく同じつぶやき」の激増で、いよいよ性に合わんわいという気持ちになり。
さりとて、どうにかこうにか自分の存在を知ってもらって本を手に取ってもらわないといかんともしがたい立場の私としては、やらないわけにもいかず。とはいうものの利用方法がへたくそだから、まったく広がっても知られてもいないのだけれど(もっと反響が欲しいよぉ)。
そんな中でのブルースカイ。やってみるか。様子を見るか。アカウントを使ったところでどんな投稿をするべきやら。頭を抱えておりまする。スレッズもインスタもどう使えばいいのやら、になっているのに。
勢いでアカウントをつくって勢いで投稿して、何の反応も得られず、つまらん!とやめるかもしれないし、用心に用心を重ねて動かないかもしれない。現在は模索中でございます。興味はあるんだけどねえ。
とりあえず今は当ウェブサイトにて、つらつらと書いてまいります。皆様におかれましてはブラウザ経由でお楽しみいただけたら幸いです。
そんな私ですが、私が参加した『万象3』や私が寄稿した『サナギ世界』の感想とか、他の著作についてもどんどんソーシャルメディアで書いてほしいのでよろしくねっ(他力本願)。
2024.1.25
先週のニューズウィーク日本版のコラムで、イギリスの郵便局にからんだ冤罪事件がとりあげられていまして。
14年間で700人以上の郵便局長が横領の罪で訴追された事件なのですが、実は新しい会計システムにバグがあって、そのせいでシステム上の記録に誤りが生じていたのを、捜査当局は横領と認定して罪に問うてしまった、らしいです。
こんな事件があったなんて知らなかったよ。冤罪だけでもひどいのに、その新しい会計システムを開発した企業はどうやら欠陥を知っていたらしく、社会的な問題に発展したのだとか。そら、発展するわいな。
で、システムを開発したのが日本の富士通でございます。
ニューズウィーク日本版の今週号のPERCEPTIVE(今週の話題みたいな欄)に、富士通の社長が多くの郵便局長やその家族に謝罪したという一言が載っていました。遅すぎやせんか。
まずいことがあると隠したくなるのは感情として理解できますよ。隠してやりすごして、なかったことにしたい気持ちもね。でもさ、隠していてごめんねっ、で許されるのは個人の問題だけでしょ。企業とか組織は謝っても済まされませんよ。
初動を間違えた代償の大きさは今後富士通が背負うことになるのでしょうけれど、ちっぽけながらもこの国で生きる日本人の一人として、何をやってんだか、とあきれるばかりなりです。
日本企業の謝って済まされない不祥事といえば、最近もありましたよね。ダイハツの認証不正問題です。認証試験の不正は実に30年にも及んでいたとかで、もはやめちゃくちゃ。
実は母親がダイハツの軽自動車を所有していて、しかし高齢とちょっとした病気により運転はもう無理だろうし維持費もかかるから処分しようということで、購入した販売店に相談して買い取ってもらったのです。それが昨年11月の最終週。それから二週間やそこらで不正が発覚ですよ。
いやもう、あっぶねー、というのがきわめて個人的かつ正直な感想。
買ったところに相談したのでそこそこいい金額で買い取ってもらったのですが、あとちょっと処分の手続きが遅れていたら買取り金額はどうなっていたことか。それどころか買い取ってもらえていたかどうか(購入から処分までお世話になったダイハツ販売店の若い店長はいまごろ大変やろうなあ)。
消費者が商品なりサービスを選ぶときの基準は、商品の質と、あとは作る側への信頼。そこをないがしろにして客を裏切ったら終わりだよ。企業、特に上場企業には社会的責任というものがあります。あるはずです。ないと困るもの。ビッグモーターもそうやったけど、利益のために顧客満足ではなく嘘と隠ぺいを選ぶ企業は、存在していてはいけないよ。
そんなことを思いつつも口調がいくぶん柔らかいのは、すんでのところで母親の軽自動車を納得できる金額で買い取ってもらえたからという安心感ゆえ。いや、ほんと危なかったわい。
2024.1.7
新年明けましておめでとうございます。
今後の活動は完全に未定で、良い展望がひらけたりもしておりませんが、新年ですし、気持ちを新たにやっていきたいなと思っています。
ちなみに去年のひとりごとはこちらに保管しています。ご興味のあるかたはどうぞ。
今年の干支は辰で、私の干支が辰です。で、よく考えたら『ワーカー』で日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞したのが12年前の2012年でして、そのときも辰年だったんだなということに気づきまして。縁起をかつぐ性格ではないのですが、例年にはない何か良いことがあればいいなあと。そのためにもまずは書かないとね。
ということで長編にとりくんでいます。まずは企画として組みあげて、手応えが得られれば。
そんな正月ですが、ナショナル・ジオ・グラフィックの『ザ・ミッション サタン最後の砦に挑んだ宣教師』を観ました。文明と接触していない部族にキリストの教えを広めてキリスト教に改宗させようと試みて、結果として殺された宣教師のドキュメンタリーです。
とにかく重い。
福音派に属し、大宣教命令を自らの使命と信じた青年の行動は、信仰を持たない私には理解できない。福音派が伝動を煽るのも傲慢にしか見えない。
でも心から信じている人に、それは相手のことを思いやらない自分勝手なふるまいだからやめなさいと説いたところで通じない。だってその人は伝動が正しいと本当に信じているのだもの。命を賭けてでもやるべき使命だと疑いもしないのだもの。
ドキュメンタリーには、ブラジルだったかな、同じように未開の部族に接触した人が出てきます。部族の言葉を覚えて部族の一員になってキリスト教の教えを広めようとしたが、自分のおこないの傲慢さに気づいて部族を離れて帰国し、信仰を捨てて、伝動にも否定的な立場に変わった人です。気づくにいたった経緯が個人的には心に静かに刺さったエピソードでしたので、詳細はドキュメンタリーをご覧いただければ。
もしかしたら信仰心の篤い人は、この人には信じる力が足りなくて、だから迷いが生じて挫折したのだと思うかもしれない。でも相手の気持ちを本当に理解して、ようやく自分のおこないは間違っていると気づいたその人の変化にこそ、人が人として群れをなして生きていくための重要なものがあると思うのです。
正しさは絶対じゃなくて、人の数だけあって、自分と他人は違うと認めてはじめて群れとして成立するのだ。という考えは、神仏習合なんでも取りこんでやるぜっクリスマスもハロウィンもパーリィナイッ、という日本で生まれ育ったからでしかないのかも。でも他人への許容とか容認がないと、その先は傷つけあう未来しかない。と思うのです。現実に世界のあちこちが戦争状態だし。
だとしたら、その青年が抱いた使命や持っていた正しさも、その人を構成する要素として認めないといけないよな。できるのか。もし身近にそういう人がいたら、そんなのは間違っていると反論しそうになるけれど、それはそれで傲慢なおこないやんかと。
人と人。思想。信仰。難しいよなあと考えさせられたドキュメンタリーでした。
そんなこんなで、本年もよろしくお願いいたします。