ひとりごと
2023.12.29
2023年、最後のひとりごとでございます
今年はとにかく『万象3』刊行にともない、新作『サナギ世界』を発表できた。これにつきますね。関係各位にはどれほどお礼を言っても言いたりないぐらいです。そして何度も言ってしまっていますが、一人でも多くのかたに読んでいただけたら、そして楽しんでいただけたらと願っています。
来年こそは新作を世に出したいなあ、と書いて今年を締めるはずだったのですが、年末にしてさっそく来年への暗雲がたちこめてまいりました。
しばらくはまた地下にもぐるやもしれません。何とかして作品を発表すべくやってみます。が、はてさてどうなるか。ちょいと、いや、ちょっとでもないな、かなり弱気になってしまっておりますが、この年越しで気持ちを切り替えて。
ともあれ、2023年はありがとうございました。みなさま、よいお年を。
2023.12.24
先週火曜日から始めた『万象3』の全作品紹介が、昨日無事に終わりまして。
全作品なので疲れたのは疲れたのですが、想定していたよりは楽だったかなと、明けて日曜になった今、そんな気持ちでおります。喉元をすぎれば何とやらやもしれんけど。一日あたりの作業時間は二時間ほど。三作品の日と四作品の日があったとはいえ、どちらも同じくらいの所要時間。もっと時間がかかるものと見積もっていたので、気持ちのうえで楽だったのかな。
ただ、ぎりぎりまでやるべきかどうかは迷っていたんです。
紹介といってもあらすじを並べるだけじゃつまらない。つまらなければ興味を持ってもらえない。一人でも多くの人に興味を持ってもらい読んでもらいたいのに。さりとて感想を交えようにもネタバレをしてはいけないし、すべての作品を同じ文体と同じ形式で一辺倒に紹介しても飽きるし(特においらが)、すべての作品の感想をすべて違う表現で書くとなると大変やし(これは努力してみたものの今後の課題かな)、かなり過酷やぞ、と。
何よりも気になったのは、参加されたかたに嫌がられへんかなということでして。
同じ参加者が感想を書くのは、買って読んでくれたかたが書評としてネットにあげるのとは意味合いが違うもの。作品の内容を批判するつもりはなかったし、批判する必要もなかったのだけれど、私の個人的な感想に対して「おもしろおかしく書くな!心外だ!そんなつもりで書いたんじゃない!」と責められちゃうと、すんませんとしか言いようがないやん。ないと思うけど。少なくとも斉藤直子さんから言われることはないと思うけど。ないはずだけど。ねっ。
それに、運営側でもない私が紹介と感想をあげる行為は、どことなく上から見ているように思われないかな、と。他の参加者からそんなふうに言われたわけじゃないし、いい人たちばかりだし、ただただおいらの邪推なのですが、私の勝手な行為で気分を害されないだろうかと考えたのも事実。一応、そのくらいの自制心はあるのです。
ただ、考えた結果、わずかな自制心は見事に吹っ飛んでいったわけです。
そもそものきっかけは前作『万象ふたたび』に参加したことでした。第一作目の『万象』のときは『精密と凶暴』の執筆で壁にぶちあたりまくっていたので私は不参加で、しかも読んでいませんでした(何とも不届き)。
『万象』シリーズをはじめて読んだのは自分が参加した『ふたたび』で、完成後にデータをいただいたので眼をとおしてみたのですが、これがね、めっちゃおもしろかったんですよ!
このおもしろさをもっと多くの人に知ってもらいたい。そのために何かできないか。たいしたことはできないが、多くの小説好きのかたのおすすめタイムラインに出没するというのはどうだ。できるかもしれないし、できないかもしれないが、次があればやってみよう。と考えたのが事の始まり。
ソーシャルメディアのおすすめタイムラインに現れるには「いいね」と「リツイート」をかせがないといけない。そのためにはまず複数の投稿をしないといけない。しかし、発売しました!よろしくお願いします!を連呼するだけじゃ興味も持たれず流れていく。となると、作品紹介か。
ということで、先週火曜日からの怒濤の連続投稿とあいなったわけです。
結果としてやってよかったのかどうかはまだわかりません。いくぶん不安だったりします。根は臆病なもので。でも、やらないで後悔するよりやって怒られたほうがいいかなと。何事も勢いなのです。
私の投稿をたまたま眼にして、なんとなく興味が湧いて、「年末年始に時間があるし、ちょっと読んでみるかな」というかたが一人でもいればいいなあと期待しています。あわよくば、そういうかたが増えればいいなあとも期待しています。だってせっかく書いたんだもの。読んでもらってはじめて作品は呼吸できるのだもの。読んでもらえないと存在しないのと同じなのだもの。
さて、ついでなので自分の小説についてもふれておきましょうか。アンソロジーなのに長編を持ちこみやがったところを中心に。
『万象3』の題材として提示された中に「⚪⚪世界」(⚪は何でもアリ)というものがあり、そこで、サナギ世界という題名ががあったなと思いだしまして。
元々『サナギ世界』というのは日本ファンタジーノベル大賞受賞後に小説新潮に掲載された短編の、当初の題名でした。途中で題名は『求愛の音色』に変わり、サナギ世界という言葉はすっかり忘れていたのですが、「⚪⚪世界」という題材を見て思いだし、同時に昔書いたバッタの小説があったな、あれを『サナギ世界』にしたらいけるんちゃうか、と(不完全変態のバッタのくせにサナギかよ、という文言を入れ忘れたのはここだけの秘密)。
問題は、バッタの小説は応募用に書いたもので完全に長編。原稿用紙で四百枚。
まあ『万象ふたたび』のときの『地の底の熱狂』も、十年以上前に書いたもので、枚数が膨大になってまとめられない!ということで途中で執筆をやめたものを、要素をしぼりにしぼって中編の規模まで縮めたし(実を言うとね)、今回も同じように要素をしぼって文字数を削ればいけるだろう、と。元々の『バッタ』は内容もテーマもとっちらかっていたし。
ちなみに『地の底の熱狂』は、その後「巣」の買収から持ち株組織の設立、さらには分割して売却という展開まで考えていて、「巣」とは何かというテーマにつなげようとしていたのです。機会があれば書きたいなあ。
で、『バッタ』ですが、軽く考えていました。『地の底の熱狂』は書ききっていなかったのでどうにかなったのですが、バッタのほうは書き終えていて、読み直したらいくらかは削れるものの、そんなにばっさりとはいかない。がんばってはみたのです。みたのですが、無理でした。無理というか削りたくなかったのです。
『バッタ』を書いたのは2011年。東日本大震災のときです。
震災による被害と原発事故の報道を深夜までテレビで流しっぱなしにしながら、私はまとまらない原稿を直しては元に戻し、どこに向かうのかもわからないまま推敲していました。流れ続ける惨状を前に「おれ、何してるんやろ」と思っていました。
そんなだから原稿をうまくまとめられはずもなく。時間の経過とともに内容もほぼ記憶から消えていました。存在だけをかろうじて覚えていたくらい。
はたして『万象3』用に使えるだろうか。不安になりつつ読み直したのですが、本当に内容をすっかり忘れていたのです。特に終盤。「これどうなるんやったっけ?」からの「これ、何?」となり、最後はおどろき、笑みを浮かべていました。昔のおれ、やるやんか!
これはいける。使える。しかし長編だ。とっちらかっているところは削れるけど、そんなには削れない。どうする?
そこでふと考えました。日本ファンタジーノベル大賞受賞者有志によるアンソロジーという看板の他にも何か売りがあっていいんじゃないか。「アンソロジーなのに長編が丸ごと一作」はネタになるんじゃないか。いくぶん自己弁護じみていますが、そんなふうに考えて、えいやっと完成させて送ってしまいました(反省は、ちょっとだけしています)。
そんなこんなの『サナギ世界』です。長編にもかかわらず受け入れてくださった版元の西崎憲さん、まとめ人の斉藤直子さん、本当にありがとうございました!
あらためまして、日本ファンタジーノベル大賞受賞者有志による超巨大アンソロジー『万象3』が刊行されました。ものすごくおもしろくなっております。小説が好きなかたにも、以前はよく読んでいたけど最近はそうでもないなというかたにも、めったに小説を読まないかたにも、場合によっては小説を読んだことがないかたにも、とにかくたくさんのかたに読んでいただきたいのです。みなさまのところに届いたらいいなあと願っています。
それでは、めいっぱいお楽しみくださいませ!
2023.12.11
ばたばたしつも、ようやく本を読む時間が確保できつつありまして。
そんな中で何気なく手に取ったのが『シリコンバレー最大の捏造スキャンダル全真相(原題BAD BLOOD)』という、医療系ベンチャー企業セラノスを題材にしたノンフィクション。著者はウォールストリート・ジャーナルの調査報道記者だったジョン・キャリールーというかた。
これまでは注射針で一定量を採血しなくてはいけない血液検査を、指先に針を刺して採った数滴の血液を独自の検査機器にかけることで簡単に、それこそ自宅でもできるようになる。そうすれば煩雑で負担もかかっていた血液検査が楽になり、病気の早期発見につながる。といううたい文句で投資家から多額のカネを集め、いっときは最大のスタートアップともてはやされていたけれど、実はそんな夢のような血液検査はまったく実現していなかった、というのが事件の概要。
セラノスという会社やこの事件のことは知らなくて、本を読んではじめて知ったのだけれど、とにかくひどい。めちゃくちゃ。
独自に開発した小型の検査機器ならどこででも検査ができるというふれこみだったのに、機器の小型化に失敗して他社の検査機器をこっそり導入していたり、少ない量で検査をするために血液を薄めに薄めて、検査の精度は当然落ちてしまって、それらを隠して、その場をしのいで、しまいには嘘までついて乗りきってしまったという。
ホラを吹いてカネを集めるだけならただの詐欺だけれど、この事件は医療関係やからね。しかも実際にスーパーマーケットだかの店頭でサービスを始めてしまっていたという。セラノスから届いた血液検査を見て、重病の疑いがあるとしてCTスキャンとMRIで調べて、血液検査もやりなおして、そうしたら異常はなかったという被害が続出したそうです。
おっそろしい話ですよ。医者は血液検査を見て治療方針を決めるのだもの。患者も医者も検査の結果を疑ったりなんてまずしないもの。本作で著者が訴えているのですが、セラノスはただのスタートアップではなくヘルスケア企業で、売ろうとしていたものはソフトウェアじゃなく医療器具。そこには患者の命がかかっている。まさに。絶対に適当にやっちゃいけないところをセラノスの創業者エリザベス・ホームズはなあなあにして、投資家をだましてカネを集めていたのです。ありえへんよね。
著者は、この平然と嘘をつけるエリザベス・ホームズのことを、結論は心理学者にゆだねるとしながらもソシオパス、社会病質者なんじゃないのかと書いています。
でもその後、エリザベス・ホームズはセラノスを解体して、不動産企業の御曹司だかと結婚して、子供を産んでいます。自身の訴訟が迫っていたのに。そして裁判では全身すべての細胞にいたるまで自分の失敗を悔やんでいますと涙を流しつつ、有罪評決後に御曹司とやらとの私生活のスナップショットをネットにあげちゃっているのです。BBCの報道に出ているけれど、これって本人があげたんやんね?じゃないとBBCも使わないものね。ついでに言うと、有罪の評決が出たあとでこの御曹司とやらは「母親と子供が引き離されるような事態は避けたい」とかなんとか言うているのだもの。なんだこいつら。
エリザベス・ホームズの倫理観と良識と共感性の著しい欠如は、社会病質者というより精神病質者なんじゃないのかなと思ってしまうくらい、理解できない人間による理解しがたい犯罪でした。で、その犯罪への興味やらいらいらもありつつ、何よりも言いたいのはこの本が読み物としてものすごくおもしろい!ということ。
元従業員や関係者からの証言に基づいて創業から資金集め、開発が困難になる中でのセラノス内部の雰囲気を再現する前半部分から、この話が著者に持ちこまれて調査を始める後半への流れにひきこまれて、まあおもしろくて、読むのをやめられなくなってしまいました。ノンフィクションにおもしろいという感想はどうかと思うけれど、おもろしいものはおもしろいんだからしょうがない。そもそも、本なんておもしろいから読むのだし(これは書いている自らへの戒めね)。
なんか日本にも医療系ベンチャーだかなんだかってのがあったなあ。何の話で聞いたんだったか。ちょっと日本にもそういうもんがないか調べてみようかなと考えて、そういえばSTAP細胞があったなと。私、たまに酔っぱらったりしたときに「ありま〜す」なんてネタで言うていたけれど、よくよく思い返すとあの事件って自殺者が出ているよね。そういうのは控えないとあかんな。と、ちょいとだけ反省した2023年冬の一日でございました。
さて、日本ファンタジーノベル大賞受賞者有志による超巨大アンソロジー『万象3』が、いよいよ2023年12月に刊行されます!電子書籍です。アマゾンとか楽天でお買い求めいただけます。
各種ソーシャルメディアと当ウェブサイトで中身についていろいろと書いていくつもりなのですが、今週末も外に出ていたり相変わらずばたばたしておりまして。いっそのこと前倒しで今週から書こうかなとも思ったのですが、ずっと待っていただいていて、発売日に買って読むんだ!とお考えのかたもいるでしょうから、ネタバレをするつもりはないけれど書きすぎて楽しみを奪ってもいかんなと自重して、刊行後に一週間ほど使って各作品について紹介と感想を小出しにしていきます。
ぜひぜひお手にとってみてくださいませ!
2023.11.23
以前から、ひとりごと用で使えるかもというネタをOneNoteに書きためていまして。
読み返してみるとこんなのがありました。1989年8月29日、全日本プロレス、大阪府立体育館、鶴田・谷津VS天龍・川田。天龍のカットが全部頭を蹴っている。えぐい。
酒を呑みつつ日テレG+をつけたら昔の全日本プロレスが流れていて、試合内容というか天龍の(ファンすぎるのでプロレスラーは基本的に敬称略)カットの仕方があまりにえげつなくて携帯電話を取りだしてメモしたのは覚えています。だって本当に、カットのたびにいちいち頭とか顔を蹴っていたのだもの。力もけっこう入っているし、顔つきもおっそろしいし。
よく考えたらこのときの全日本プロレスは全然観ていなくて、だからジャンボ鶴田の試合もあまり観ていなかったなと興味が湧き、とはいえ昔の映像を追いかける時間はないので、小佐野景浩さんの『永遠の最強王者ジャンボ鶴田』という本を読んでみたのですが、文字で情報を受けとるっていいなあと。物書きの分際で今さら何をという話なんだけどさ。
プロレスの試合はそもそも視覚で楽しむものなのだから映像がすべてだ、とまでは言わないけれど、それに似た気持ちだったのが正直なところ。でも試合内容だったりジャンボ鶴田の技の威力などを文章で読んでいると、なんかとにかく凄そうという印象を抱いたのです。で、映像でたしかめたくなったのです。おそらくこの眼で観たらもう一度本を読んで文章で追体験したくなるだろうなあと。
それは書き手である小佐野景浩さんの思い入れがたっぷり含まれているからで、誰かの主観に乗っかる形で楽しむのは映像にも音楽にもなく、文章の最大の強みだよなあと。だから読むという行為はすごく楽しいし、私は好きなのだなあと、そんなことを改めて感じた次第です。
ちなみにそのメモには、天龍がえぐいという他に『最後はリバースノーザンライトスープレックスみたいなやつ』と書いていました。谷津のフィニッシュ技で、これはいいやん今の若い選手が盗んだらおもしろそうや、という感想は覚えているのですが、いかんせん技そのものがまったく思いだせない!何のためのメモやねんとあきれつつ、どこかの機会でこの試合の映像を再度観てみます。
2023.11.15
親のことで病院に行く機会が増えまして。
とはいえ同じ病気の検査で通うならまだしも、高齢ですから、命の危険ってことではないのですがいろいろとあるわけです。そのたびに違う科に行ったり違う検査を受けたりして、そのたびに違う手続きをしなくてはいけなくて、なかなか慣れないのです。
先日もちょっと違う検査を受けたのですが、そのときに対応してくれた看護師さんが典型的な関西のおばちゃんという感じで。悪く言うとなれなれしいというか遠慮がないというか。
でもね、それがよかったりするわけですよ。
こっちは慣れない状況で、ひとまず医者やら看護師の話を聞いて理解して、というのに必死なわけです。余裕がないわけです。そんなときに多少のことじゃうちは動じんよぐらいの、それこそ病院に刃物を持った男が立てこもっても「うるさいねんこっちは患者の相手してんねん黙っとき」ぐらい言いかねない泰然としたおばちゃんが、こっちがひくぐらいに距離をつめてくるのです。
最初はひきます。ぐらいじゃなくて、ひいたもの実際に。
でもちょっと時間が経つとおばちゃん然とした看護師さんの、悪く言うとなれなれしいけれど、よく言うと親しげな態度のおかげで気持ちが軽くなるのです。そうすると、こんなことはわざわざ訊かなくてもいいかなぐらいの小さな疑問なんかも自然と口にできるようになり、それに対しておばちゃん然とした看護士さんも親しげな口調のままわかりやすく答えてくれるのです。すごく助かります。
で、そのおばちゃん然とした看護士さんですが、親しげに距離をつめてくるけれどちゃんと気遣いをしてくれているんです。遠慮がないように思えて、ちゃんと遠慮と距離を保っているんです。言葉遣いとか親しげだけれどけっして荒くも雑にもならない、みたいな。このさじ加減がすばらしい。
そもそも、その看護師さんが対応してくれたのは午後四時半とかそのくらいです。その看護士さんの勤務時間がどうなっていたかは定かでないですが、病棟勤務ではないし、患者も減って落ちつく頃合いだと思います。疲れも出てくるかもしれません。
そのおばちゃん然とした看護士さんの元気なこと元気なこと。しゃべりは早口。声はでかい。まさに関西のおばちゃん。そのたのもしさたるや、ですよ。こっちは慣れない病院内で迷子になりかねないぐらい右往左往しているから、その看護師さんのおかげでどれだけ楽になったか。
関西在住ですし、大阪にも住んでいましたし、おばちゃんの力をあなどっていたわけではないのですが、もっともっとこういういい意味でおばちゃん然としたかたにあっちこっちで活躍してもらいたいな、などと思ったりしました。
2023.10.30
数日前、開発ソフト上ではスレッズが表示されずにインスタグラムが表示されていたのに、アップロードしたらスレッズが表示されてインスタグラムが表示されない、などと書きましたが、昨日確認したらウェブ上ではスレッズが表示されずにインスタグラムが表示されていました。ややこしい。説明もややこしいが、現象そのものもややこしい。解決策を探す気力ももはやございませぬ(現実からの逃避中)。
今日、報道されていたのですが、先日岩手県の知事が愛媛に出向き、そのときの食事で最後にステーキなどが出るのかと期待したらじゃこ天が出てきて貧乏くさいと言ったとか、そもそも四国は酒がうまくないなどと言ったとか。
そうしたらじゃこ天を製造販売する会社への注文が増えて、六割は岩手からのお客さんで、注文のたびに「うちの知事が本当に失礼なことを言ってしまって」と謝られたそうです。
ほほえましい話題として扱われていて、岩手県民の律義さなどは確かにほほえましく温かいなあと感じたのですが、いっぽうでやるせない気持ちにもなりまして。だってこんなことがなかったらテレビで取りあげられることもなかったんやもの。失言やら暴言のおかげで取りあげられて注目されたんやもの。
注目されたければ負のパフォーマンスをするほうがてっとりばやいという構造があらためて露呈してしまったわけで、そりゃあ炎上商法がなくならんわけだわ、という気持ちになっちゃったのです。別にじゃこ天の製造販売をしている会社が話題づくりで仕掛けた、とかではないんだけれどね。
みんながみんな他者を認めてたたえて褒めあう安らかな世界、などを求めているわけではないです。負の話題をいっさい出すなと言いたいわけでもないのです。
ただ、正の話題より負の話題のほうが注目が集まりやすく興味を惹きやすい傾向というか、この性質はいったい何なのだろう、どこから来ているのだろうね。人間の本質的なものなのかな。群れ社会において秩序を乱すやつがいたら群れ全体の安全を脅かしかねないから、異質なものをすばやく発見して排除するために負の要素により強く興味を抱くよう遺伝的にプログラムされていったとか。たんなる隣人の悪い噂をひそひそと話して盛りあがるアレなだけかもしれないけれど。
どうせなら、じゃこ天を食べた岩手県知事が「じゃこ天をきりたんぽ鍋に入れたらうまいかも」とか、岩手にしかないタレか何かの商品名を出して「このタレで食べてみたい」みたいな発信をして、それを岩手の飲食店がやってみて、これはうまい!となって、じゃこ天のことも広く知られるようになる、とかだったらほほえましく見ていられるのになあ。そういう話題の広がりかたのほうが気持ちいいんだけれどなあ。ま、これは好みの問題ですな。
ただ、これだけは言いたい。どうしても言いたい。
ごちそうとして期待していたものがステーキって、あんた。なんぼなんでも古すぎやせんかい。
この知事は発言について謝罪し、四国四県の知事にもあらためて謝罪するということらしいので、一件落着なのですが、この謝罪部分については報道されへんのやろうな大衆の関心はすでにそこにはないから、と考えてまた暗澹たる気持ちになるわけです。
とまあ、そこそこの熱量で書いてきた私ですが、実はじゃこ天を食うたことがありません。腐れ縁のはんどめいど家族の長女が愛媛で食べてうまかった、という話を聞いただけなのです。ええもんを食うていやがるからなあ、あいつ。
一度、食うてみたいと思っていたじゃこ天の話題だったので取りあげてみました。今度、食うてみたいシリーズでも書いてみようかしらん。
2023.10.27
現在、ウェブサイトをいじっております。そしてこういうものの常でして、いじったらいじったぶんだけうまくいかないことにぶちあたってしまうのです。
『万象3』刊行に合わせてトップページを告知用のデザインにして、ちょっとでも周知できればと各種ソーシャルメディアにアカウントをつくって、さあアップロードしようとしたらいきなりサーバーエラーですよ。
なんで?何にもしてへんやん?と悩むこと数時間。安全性を考慮して長く同じままだったサーバーパスワードを数日前に変更したのですが、まさかこれか?でもログインはできていてアップロードの段階で致命的なエラーとやらを吐きやがるしなといぶかしみつつ、うまく動作していたときのパスワードに戻したら無事成功。
いや、なんで???
もうわからん。わしには何もわからんです。
あと、各種ソーシャルメディアのタイムラインをトップページに埋め込むのはあきらめましたです、はい。
どうやら以前の状態でも見える人には見えていたようで(おいらにはまったく見えませんでしたが)、トラッキング防止とかブラウザの設定とかソーシャルメディアにログインしていたら見えるとか情報が錯綜していて、どうであれ各ユーザーの環境にそんなにも依存するのは都合が悪いわい嫌じゃい、ということで力業を選択しました。つぶやいたりポストしたりシェアしたり、あとなんやったっけ、スレッズは投稿だったかな?そんなのをするたびに記事をひとつひとつ埋め込んでやります。令和の時代に地道に手入力です。
実際は、重要な記事とかおもしろいやつを選んで埋め込みますので、残りは各種ソーシャルメディアのアプリを通して閲覧していただけたら助かります。手作業、しんどいもん。
ひとまずこれでウェブサイトの作業は終了。無事にアップロードも成功したし、あとは久しぶりのひとりごとを書いて今日は終わりやと思っていたのですが、これを書いている現在、cssがうまく読みこまれていないようで当方のブラウザではレイアウトやら設定がまったく反映されておりませぬ。キャッシュの問題なの?それとも別の致命的な何かなの?もうわからんです。とりあえず時が解決してくれるのを待ちます。
それと、トップページに貼りつけた各種ソーシャルメディアの記事ですが、Visual Studio Codeではスレッズがうまく表示されず、でも似たような埋め込みコードのインスタグラムは表示されていて、しかしながらアップロードしたら今度はスレッズが表示されていてインスタグラムが表示されなかったという、もはや天を仰いで頭を抱えるしかないありさま。
これも時が解決してくれるのを待つことにします。たぶんこっちは時間じゃ解決してくれなさそうやけど。
そんなこんなですが、物書きとして地べたを這いつくばりながらも動いております。まずは『万象3』。ものすごいものになっています。あと少し。本当にあと少し。当ウェブサイトでも情報を出していきます。ご期待くださいませ。
2023.9.11
ラグビーは高校の授業でちょっとふれたぐらいで、ルールもよくわからないから、ワールドカップにもさほどの興味がなかったのです。
ですが昨夜、何気なく南アフリカ対スコットランドの試合を観ていたら、これがおもしろいの。
やっぱり細かいルールはわからないままなのですが、いかにしてラインを押しあげるかという戦術が重要なのかなと。体格のさまざまな選手がいて、相手選手が前方にかたまっているときは筋肉の塊のような大きい選手にボールを渡し、その選手がまっすぐつっこんでいって相手を押しこみつつ、数人の相手を自分にひきつける。その隙に小柄な味方にボールを渡して、その選手がうまく場から抜けだして前に走るとか。相手もそれを読んで守備のラインをかためていて、そうしたらキックの得意な選手にボールをたくし、その選手が敵側に大きく蹴りだしてラインをあげるとか。そういうことなのかなと。
で、南アフリカ対スコットランドの試合がおもしろかったのは、ある選手がサッカーなみに正確なスルーパスを蹴りだして、これまたサッカーでいうところの逆サイドに足の速い選手が飛びだしていてボールを受け取り、相手選手をふりきってタッチダウンを決めたところ。パスを出した選手はノールックなのですよ。それでいて正確。受け取る側も完璧な飛びだし。
あの楕円形のボールをさわったことがある人ならわかると思うけど、あのボールって本当に扱いが難しいのですよ。投げるのすら思いどおりにいかなかったりするのに、蹴りで正確なキラーパスって。ぜひ一度、みなさまに観てほしい。すんごいシーンでしたです、はい。
2023.8.18
旧ツイッター、現Xのウェブ埋めこみがいつまでたっても直らず。
X社になったから新たに埋めこみ用のURLを書き出すサイトなどが用意されるかなと思っていたのですが、一向にそんなものは用意されず、さりとて旧ツイッターのシステムのまま復活するでもなく、いつまで経っても右枠はみすぼらしい表記のままとなっております。
これはいかんなと思い、ひとまずfacebookのタイムラインを埋めこんでおこうかといじってみたら、これがどうしたものやらまったく表記されず。以前はできていたのに。むしろ以前はどうやっていたのやら。と頭を抱えている次第。
物事がうまくいかないときはたいていやけくそになるのが私でして(だいたい私は物事がうまくいっていないときのほうが多いので日常的にやけくそではありますが)、せやったらいっそのことソーシャルメディアと呼ばれるもんを全部導入してトップページに貼りつけたろ、昔のウェブサイトでいうところの『工事中』みたいな表記のままやけれど旧ツイッター現Xに始まって、スレッズ、ついでにミクシィもや、そんだけ並べてみたら壮観やぞ、と思ったものの、トップページが楽天市場の店舗ページなみにうるさくなりそうなのでかろうじて踏みとどまりました。
とはいえ、このままでもいかんのでスレッズの導入を検討してみます。
楽天市場で思いだしたけど、ブラウザにこれでもかと出てくる楽天市場の広告。あれ、どうにかなりませんかね。
アクセスしたこともないエログッズとかスクール水着などの広告が、ひどいときにはウェブサイトのすべての広告に貼られるというおぞましいありさまでして。一人のときはまだいいけど、このあいだはひどくて。
姪っ子の動画をリビングのテレビに映すためにmacとテレビをつないで姪っ子のiPhoneもつないで、さあここからどうするんかな、わからんから検索しよか、とグーグルさんにおうかがいをたててウェブサイトに飛んだらばっちり表示されやがったぞ、楽天のエロ広告が。何事もなかったかのようにバツを押して消したけど、ほぼアウトやぞ。
あの広告が楽天市場の問題なのかグーグルアドセンスの問題なのかはわからないけど、どっちにしろ勘弁してくれませんかね。何が広告じゃ。何がアドセンスじゃ。自慢じゃないが俺は金なんぞまるっきり持ってへんけど、それでも自分のウェブサイトには絶対に広告は入れたらへんからなっ(今年いちばんの強がり)。
気を取り直して、前にちょこっと書いたキリンウイスキー陸のおためしパッチ。味わいましたよ。うまかったですよ、あれ。そもそもアルコール分50%だもの。高級ウイスキーやものね。味の深みが普段飲んでいる安いウイスキーとは別物でした。50%のわりに口あたりはやわらかかったし。日常的に呑むには私にはちと高いのですがね(本、売れてほしいよぉ)。
そんな気持ちを抱えつつ、今日、旧ツイッターで久しぶりに自分の名前で検索してみたら、最近『精密と凶暴』を読んでいただいたようで、楽しんでいただいた旨のつぶやきを発見しました。
自分の作品が会ったことのないどこかの誰かの眼にとまり、その人に読んでもらって、さらには楽しんでもらえて。そして大好物の一言をいただいて。その言葉でどれほど救われ、報われるか。結果も出せず埋もれている状態だから、なおさら私には響くのです。
あらためて、私の小説に時間を使ってくれたすべての読者のみなさま、ありがとうございます。みなさまに楽しんでいただけたなら嬉しいです。
私自身の今後の予定は白紙ですが、作品の発表としては日本ファンタジーノベル大賞受賞者有志によるアンソロジー『万象3』があります。私の小説も入っております。こちらもぜひぜひお願いいたします。
2023.7.20
噂に聞いていた送りつけ詐欺なるものがうちにもやって来やがりました。
とうとつに宅急便で荷物が届きまして。送り主はアマゾン。何か注文したっけかな。記憶にはないな。でも酒っぽい箱やな。先日、抽選であたるというキリンの陸というウイスキーのお試しパウチが当選したからそれかもしれん。でもめちゃめちゃ五合サイズが入る箱やしな。などと思いながらも印鑑を捺して受け取ったわけです。
部屋に戻って伝票をよーく確認すると宅急便コレクトって書いている。コレクトって何?しかも伝票に金額と消費税と、「上記領収しました」の文言。急いで宅急便コレクトについて調べてみると、めちゃめちゃ代引きやんかい、となりまして。
ひとまずクロネコヤマトのサービスセンターに電話をし、ドライバーから折り返しの連絡を受けて、受け取り拒否の手続きをしてもらいました。暑さでまいっていたのか、代引きの商品をそのまま渡してしまうという相手方のミスによってむしろ助かりました。インターネットで調べてみると、もし玄関口でカネを払っていたらクロネコヤマトでは返金対応ができないみたいで、その後はアマゾンとのやり取りになるらしいです(だからヤマトさんはもしこのページにたどり着いても今回のミスは見逃してあげてねっ)。
いや、もしクロネコヤマトが代引きで料金を求めてきても払わなかっただろうけどね。だって三万八千円やで。ウイスキー一本で。払うかい、そんなもん。わしゃそんないいもんを呑めるほど偉くも金持ちでもないやい(くそがっ)。
しかし、この送りつけ詐欺をやっているやつは阿呆なのかね。くりかえすけど三万八千円ですぜ。身に覚えのない代引きでそんな金額を払うかいな。高齢者ねらいなの? それにしたってあれへんやん。高齢者だって代引き三万八千円なんかそうそう払わんって。何やねん三万八千円のウイスキーって。こちとらその商品の消費税分のウイスキーだって特別なときにしか呑まれへんわい(どんな味か、ちょっとだけ興味が湧いたやないかい)。
でもこの手の詐欺をやるやつはけっして阿呆ではない。屑だけれど頭が悪いわけではない。だから、きっと利益を得る仕組みがあるのだろうね。ポイントとか、あるいは他の何かがあるのかも。
と考えると、インターネット通販での代引きってもうやめたほうがいいんちゃう? だって代引きを使う理由がないもの。というか今どきインターネット通販での代引き利用者っているの? アマゾンだって楽天だって、メルカリですら信頼できる決済方法があるやん。クレジットカードが嫌いとか持っていないとかならコンビニ払いがあるし、ケータイ払いでの決済もできるやん。もし高齢者でクレジットカードが嫌いでコンビニ払いの方法もわからないという場合にかぎり、インターネットじゃなく電話で注文を受けて代引きが使えるようにすれば、発信者の電話番号がわかるから詐欺は防げるんじゃないのん? そもそもの話、インターネット通販を利用できるならコンビニ払いやケータイ払いだってできそうやけどさ。
代引きを使うとすれば個人商店での売買とか、ソーシャルメディアを使った個人間取引になるのかな。でもそれは双方の個人情報が必要になるから詐欺行為があってもすぐに対応できそうやし。インターネット通販事業者を利用するにあたっての、代引きでなければいけない状況というのがあまり思い浮かばないのですよね。
宅配会社にとっては代引きの手数料も利益の一部で、重要なのかもしれないけれど、問題は大半の人が身に覚えのない代引き商品なんて受け取りを拒否すると思うのですよ。だって三万八千円やねんで(しつこい?)。
代引き手数料で得られる利益と、受け取りを拒否されたときの商品を持って帰る手間やら事務手続きやらで生じる無駄な時間、くわえてもし代引きで料金を払ってもらったあとで拒否するってなったときの返金説明やら煩雑なやり取りにかかる時間とを比較して、本当に利益になるのかな? むしろドライバーの疲弊につながって会社としては損失になりやしないかい、と思うのです(特に今は暑いからね)。
私の場合は運よくカネのやりとりを回避できたので事なきを得ましたが、送りつけ詐欺にかんすることを調べたりヤマトのドライバーさんとやり取りしたり、アマゾンに報告したり(報告フォームを見つけるのに三十分ほどかかったうえ伝票に追跡番号なんかなかったらヤマトの伝票番号を入力するしかなかったんやぞもうちょっときちんと誘導してくれい)、そんなこんなで時間を費やさざるをえなかったわけで、それって完全に無駄な時間やからね。そういう意味では被害を受けたと言えるのかな。みなさま、くれぐれもお気をつけください。気をつけたところで防げるもんでもないけどさ。
それはそれとして、キリンウイスキー陸のお試しパウチ、はよう。
2023.7.7
現在、ウェブサイト上でツイッターが見られなくなっているみたいです。右隣のやつ。『通知はまだ届いていません』という表示になっています。私だけかもだけれど。調べたら、この症状はどうやらツイッターのサーバー側の問題らしくて。
当ウェブサイトの下にあるツイッターの鳥アイコンとか、『通知はまだ届いていません』の表記のところにある『Twitterで表示』を押すと見られるみたいなので、現時点では支障はないのですが、なんかもやもやするなあ。
ソーシャルメディアの分散化をしておくべきなのかねえ。それこそ話題のスレッズなるものの導入も考えるべきなのかねえ。などと考えつつも腰の重い金曜の夕方です。
2023.7.7
深夜に酒を呑んでいるとき、なんとなくCSの番組をテレビに映しています。
このなんとなくという感覚が私には重要で、気持ちを落ち着けられる貴重な時間だったりするのですが、とはいえ番組自体に興味を持つことができないと退屈してしまうわけで。あかんかったのはヒストリーチャンネルの古代の地球と宇宙人を関連づけるやつ(子供の頃は楽しく観ていたのになあ。汚れた大人になっちまいましたよ)。
そんな中、おもしろいものを見つけました。IFSCクライミングワールドカップです。
ようするにロッククライミングをスポーツ化したもので、私が観たのは決められた持ち時間内で短い距離を登るボルダーと、同じ持ち時間内で長い距離を登るリードの二種目。ボルダーは時間内であれば何度でもトライできて、途中のゾーンというところまで登ればポイントが入り、頂上のトップというところまで登ればさらにポイントが入り、最初のトライでトップまで行けばブレイクとなって大きなポイントを獲得。複数のコースを登ってこれらのポイントの合計を競うというもの。
リードは持ち時間内でどこまで登れたかを競うもので、こっちは落ちたら終わり。ハーネスを持って、途中でロープをひっかけながら進むという、自然のロッククライミングに近い競技と言えるのかな。
ルールを文字にするとわかりにくいのですが、基本は登っていく、落ちたらだめというものなので説明されずとも観ているだけで何となくわかる。これがよいのです。この明確さゆえに、難所に挑む選手を観ていたら手に汗を握ってしまうのです。
最初に観たのはボルダーなのですが、コースに用意された難所はたいていジャンプして次の岩をつかむというもので、リトライが前提の競技だからかなり難しい。その難所を、選手によってはつかんだのと逆の手でバランスを取って姿勢を安定させたり、力が強い選手は片手だけで保持したりとそれぞれの得意な方法を駆使していて、よくわかってもいないのに「惜しい!」とか「うまい!」とか言うてしまうわけです。
リードは距離が長い分、途中で休憩するのが重要になってきて、時間もかぎられているからどこで休むのか、どこで一気に進むのかという戦略面も楽しめる。リトライがないのでその場その場での対応が求められるし、コースへ挑む姿勢とかが選手の個性を見せることにもなっていて、酒を呑みながら眼が離せなくなるのです。
すごくわかりやすいから地上波でもいけそう。日曜の午後とかで、することがなくて何となくテレビをつけたらクライミングが流れていたら、けっこう観る人はいそう。まだ子供の(宇宙人ものにわくわくしていられた)ころに日曜の午後だったかな、スキージャンプを放映していて、だんだん楽しくなってきてずっと観ていたという記憶がうっすらと残っているのですが、そんな感じで観てしまいそうやなと思ったわけです。しかも解説のかたの説明がまたわかりやすいのよ。保持するときのポイントとか、体の使いかたとか、難所を画面上で丸をつけたりして、そういうのもふくめてより多くの人に発信できるスポーツなんじゃないかな、とかね。
そして何よりも、鍛えられたアスリートが自分の肉体を最大限に駆使する姿は、やっぱりいいね。理屈抜きにおもしろい。私はアスリート要素など欠片も持ち合わせていないので、自分がやろうとは思えないのですが。
そんなこんなで作業をしつつ、いろいろとごまかしつつ、日々をどうにかやっております。
ということで今後についての告知を。鋭意製作中の日本ファンタジーノベル大賞受賞者によるアンソロジー『万象3』について、もう少しでいろいろとご報告できるはずです。まだ具体的なことは決まっていませんが、そう遠くないうちに、いよいよ顕現するでしょう。私もこことかツイッターで内容について書いていきます。
ぜひぜひ、ご期待くださいませ。
2023.6.5
最近、ひょんなことからちょっとだけUnityをさわっておりまして。
Unityとは簡単に言うとゲーム製作のためのツールで、世界的なシェアでUnrealEngine5と双璧をなすといってもいいくらいの有名なものです。一般に製品化されているゲームでも使われていたりします。ものすごくわかりやすく言うなら、おそろしく細かいところまでつくりこめる『ツクール』シリーズ。むちゃな例えなのは自覚しています。
でね、さわってみたらこれが楽しいのよ。
簡単な3DモデルならUnity上でつくることができるし、Blenderという3Dオブジェクトの作成ソフトを使えば望みどおりの3Dキャラクターを動かせるし(望みどおりのデザインにするのが大変だけれど)、3DオブジェクトがつくれなくてもUnityAssetStoreには世界中の人がつくったさまざまな主人公とか敵とか家とかの3Dオブジェクト、空やら壁やらの3Dオブジェクトに貼りつけるテクスチャ、さらには簡易のゲームシステムとかゲーム内で使えるユーザーインターフェイスなんてものまで安価で売られていて、それらを組み合わせていくだけでゲームが完成してしまうという。
さらには、それらのオブジェクトにスクリプトをあてはめて、より細かい動きや表現、こちらの行動に対する反応なんてものもつくることができて、やっていくうちに「これ、おれでもゲームがつくれるんちゃう?」と思ってしまうほど。一人称のびっくり系ホラーゲームならここをこうしてこんな仕組みにして、などと具体的な方法を考えられるくらいにわかりやすいのですよ。
それがおもしろくなるかどうかというのはまた別問題なのだけれどね。
さわればさわるほど、どおりで一人称のゲームが多くなったわけだわと、いくぶん批判的に思ってしまったのも事実。だって一人称ならめんどうな設定をせずともすぐにできちゃうから。
似たようなさわりごごちのゲームばかりだと埋もれるので差別化をはからなくてはいけなくなり、じゃあどうしたらいいのか。と、ゲームをつくりもしないのにいろいろと考えをめぐらせていたのですが、私の結論はけっして突飛なものではありません。3Dオブジェクトに貼りつけるテクスチャに独自性を出す。デザインであり絵の部分ですな。ここに他にはない個性を出せば多くの人の眼につくはず。古いディズニー調のアニメを動かせるというそれだけで売りになる横スクロールのアクションゲーム『CAPHEAD』とか、同じく横スクロールアクションゲーム『Trek To Yomi』における黒沢映画のような(むしろそのまんまの)白黒映像とか。
ただ、最近はその絵がAIによる機械学習で量産できるみたいな話になっているみたいで。
AIによる絵は学習元にした著作者への権利の侵害など多くの問題をふくんでいて、たしかアメリカなどでは対策も始まっているのかな。AIの絵に著作権は認めないとか。そのあたりは詳しくないので事実の確認が必要ですが。
とはいえ、法の整備がどんな方向に進もうと使う人は使うよね。
予算をおさえてゲームをつくろうとすれば人件費なり外注への報酬を抑えるのがてっとりばやく、AIによるデザインならそれが可能なのだもの。製作者が明確な意図でよそのデザインを学習させてAIに出力させることもあるだろうし(悪意ある模倣ね)、UnityAsettStoreで安価で売られている各種デザインを使ったら実はAIによる出力だったなんてこともありそう。もうそんなことになっているのかも。出品者の手によるものなのかAIによるものなのかなんてなかなか判別できないだろうし、疑いがあっても出品者が「違います」って主張したら見極めは大変だろうし、そもそもああいうストアには現在でも似たようなものがいっぱいだし(独自性のある絵が描ける人はああいう場所で自分を安売りしたりせんわな)。
もしもAIのデザインに歯止めが効かなくなって、共存せざるをえなくなったらデザイナーはどうなるのかな。あるいはどうするのかな。
デザイナーさんの中には、機械学習も可能として作品を売る人も現れるだろうか。フリー素材で商用利用も可能です、の延長上で。あるいは自分の作品を学習させたAIを売るなんてこともあるかも(すでに始まっている?) どこぞの誰かに無断で使われるくらいならという気持ちで。で、そういう中から少数のデザイナーが人気を得て、発売されるゲームがどれもこれもその人に似た絵とかデザインになったりとかして。
さすがにそこまではならないと思うけど、個人的に危惧しているのはAIデザインとの差別化を人間側が模索すること。
AIなんざしょせんは既存のものを機械学習させて、それを組み合わせて出力しているだけやないか、だったらそのAIが絶対に出力できないようなデザインをしたるわい!という気持ちで仕事に取り組んだら、おそらくだけれど、その先にあるのは『奇をてらう』だもの。奇抜さばかりが売りの作品があふれ返ったりしたら嫌だなあ、なんてことを思うのです。後ろ向きだなあと我ながらあきれますが、娯楽ってやつには一定の普遍性が必要だとも思うのです。基準として普遍的なものがあり、それをどう磨きあげるか、もしくは崩すか、というところが腕の見せどころだと思うのですよ。だから奇抜さばかりを追及するような状況になったら、ゲーム好きとしては悲しいなあと。でも普遍性を追及するという仕事では、膨大なお手本を参照できるAIに人間は勝てないかもなあ、とも考えてしまうわけで。
そんなことを書こうと二週間前ぐらいから脳内で練っていたら、ちょうど先週のニューズウィーク日本版でChatGPTやAI生成による文章の特集をしていまして。
すごくおもしろい記事だったのでご興味のあるかたはそちらに眼をとおしていただければと思いますが、私が気になったのは日本のSNSの特殊性という考察。他の国と違って日本は発信者の割合が極端に少なく、大半は閲覧する側だそうです。
発信者の数が少なければ集合知(ものごとに対する真偽の正確性と言ったほうがわかりやすいのかな)の精度もさがり、少数ながら声の大きい意見が一般的な意見とか世論のように見えてしまう。そんなソーシャルメディアで、はたしてどんなものが受け入れられるのだろうね。AIに負けてたまるかと奇をてらったものなのか、普遍性を維持しながら磨きあげたものなのか(個人的な印象としては今は前者が強い気がします)。
などと他人事のように書いてきましたが、物書きだって影響を受けるよね。まだ精度の面で人間には追いついていないみたいですけれど、ていねいな文章ということならいつかはAIに追い抜かれるだろうし、人間が書いたのかAIが書いたのかは絵やデザインよりも見極めが難しくなるから(ほんのちょっとの推敲で区別がつかなくなる)、いつかは人間が書かなくてもいいやんという流れになってしまうのかもね。悲しいけれど。
じゃあ奇をてらう方向で行くかとなると、そんなもんただの乱文になってしまうわけで、それは困る。きたない文章の小説なんざ読みたくもないもん。いや、これは自らへの戒めです。
そこでさきほど取りあげた、先週のニューズウィーク日本版の記事に戻るわけです。日本のソーシャルメディアでは発信者が極端に少なくて閲覧者が多いという、あれ。
今のうちに人間が書いたものでおもしろかったものを「おもしろい!」と発信して! できればそこにおいらの本も加えて! おいらが奇をてらった意味不明なものを書く前に!
すみません。長々と書きましたが、今回のこの文章はようするに「読んで!楽しんで!おもしろいって言うて!」という私の怨念のごとき願望の発露です。
2023.5.22
『ワイルド・スピード/ファイアーブースト』を観てきました。
映画館だし予告が長いだろうと開始時間を一分すぎたくらいで席についたのですが、そのときに流れていた『インディ・ジョーンズ』からの『65』、『ミッション・インポッシブル』だけで本編に入ったので、上映時間はほぼ二時間半。でもあっという間でしたね。二時間半が長く感じないほど、とにかくアクションにつぐアクションで、にもかかわらずぜんぜん飽きない。徹底的におもしろい!
これが最終章の始まりで、次が本当の最後になるのかはわからないけれど、とりあえず続き物になるのはわかっていたので、次回へ続くエンドだろうと身構えていました。ですけれど、ですよ。ああいう形に持っていくとはいろいろな意味で予想外。がっつりのネタバレになるから言えないけど、言えないけれど、次も観ようという気になりますよあんなことをされちゃあ。
なので次を早く!
公開中の映画ということで、もうひとつふれておきたいのが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVOLUME3』なのですが、五月初旬からの公開だったので今月中なら大丈夫だろうと気楽に考えていたら、うちの近くのイオンシネマではあっというまに一日一回しかも吹き替えのみになっていやがりまして。
しくじった。いや、しくじったよ。
そんなに洋画の、しかも難しいことはいっさい考えるな系のエンターテインメントって需要がないのかなあ。おもしろいのに。もうでためらにおもしろいのになあ。いや、『VOLUME3』は観ていないけれどさ。でもおもろしいに決まっている!のに!しくじったわ。
その『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』ですが、何年か前にゲームも出ていまして、これが意外や意外、いい出来なのですよ。意外と言うと失礼になっちゃうかな。でもファミコン時代のキャラゲーを経験した人ならそう言いたくなる気持ちを理解してくれるはず。
このゲーム、基本はTPSなのですが、自分も避けたり撃ったりしつつ、ゲージがたまった仲間の技を選んで発動させるというシステム。で、その技を組み合わせることで効果的に敵にダメージを与えられるというもの。グルートの根っこで敵をがんじがらめにしておいてドラックスをつっこませたりガモーラで連続で切ってもらったり、困ったときはロケットの巨大ロボットで暴れてもらったり、などなど。シューターとしての操作に加えて仲間に指示しなければいけないのでいくらか煩雑ではあるのだけれど、もうちょっと練りこんだら日本のRPGのシステムにも組みこめそうなくらい、なかなか楽しいのです。
そしてキャラなのですが、他のマーベルのゲームがそうであるように、実写映画のそれとは違う人たちです。アイアンマンがロバートのダウニーさんじゃなかったように、スターロードはけっしてクリス・プラットでありません。他のかたがたも同様。なので実写映画から入ったわたしのようなもんには違和感しかないのです。が、やっていくうちにこれはこれでいいかなとなってきます。特に完全なおもしろキャラと化しているマンティスと、洋の東西を問わずみんなツンデレが好きなのねと言いたくなるガモーラなどは、むしろこっちのほうがいいかもしれんと思っちゃうくらい良いのです。原作に準拠の設定なのかな。おもろしいので、ご興味のあるかたはぜひ。
そして私は自らの失態を噛みしめつつ、自宅で『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVOLUME3』が観られる日を待ちわびるです。しくじった。
2023.5.15
先日CSのチャンネルをあっちこっち飛び回っていたら、たまたまTBSチャンネルにて日向坂46の潮紗理奈さん主演の舞台『フラガール』が放映されていまして。
率直に言ってこれがよかったわけですよ! それはもうよかったのです!
元々映画『フラガール』が好きなのもあるのですが、この舞台に出ている役者さんがとにかく本気。全員が本気の感情でお芝居をしている。これがたまらなくよいわけです。
お芝居における感情は本物であってほしい。役じゃなく感情を演じてしまったらそれは完全な嘘になってしまう。もちろん演技なのだから根本的には嘘なのだけれど、こめられた感情は本物の喜怒哀楽であってほしいのです。それが観ているこっち側を感動させてくれるのです。
舞台の大きさとか役者さんの距離感とか、そういうのもひっくるめて、いいお芝居でした。うるうるしてしまいました。おかげで、ひさしぶりに生ものを観劇したくなりました。
で、やっぱりこういう偶然の出会いって定額制サブスクリプションでは味わえないよなあ、と思うのです。アマゾンプライムもNetflixも色々とおすすめしてくれるんですけど、どうしても視聴履歴に基づいたものになってしまいます。
でも娯楽って自分が意識して欲しているものがすべてじゃなくて、数秒前まで意識していなかったり存在すら知らなかったのに、たまたま遭遇したとたん「そうか、今のおれが欲しかったのはこれなんだわ」と目覚めちゃうのも、ままあるわけでして。テレビのチャンネルをぐるぐる回す(表現が古い)のは、そういう偶然の出会いには特化した操作なのかな、なんてことを思うのです。
サブスクリプションは便利だし、なくなってほしくないけれど、一方でチャンネルを回したり(やっぱり古い)、書店で何となく売り場を見て回ってこれ読んでみたいと思える本に出会ったり、CDショップで何となく視聴して今まで聴いてこなかったけどこういう音楽もいいやんと気づいたり、そういう偶然の出会いの場も残ってほしいなあと願っています。こういう考えってやっぱり古いのかもしれないけれど。
利便性は必ずしも楽しみとイコールで結ばれるわけじゃなく、不便なのが楽しむことと直結する娯楽や表現もあるのかもしれません。どうであれ楽しむことをどこまでも追い求めていたいです、私は。
2023.4.25
神宮外苑の再開発問題が気になりまして。
きっかけは坂本龍一さんが亡くなったことなのだけれど、なぜ再開発なのか、なぜ反対なのかというのがわかっていなかったので調べてみようかな、と。
再開発の理由としては、スポーツ施設などの老朽化や競技環境・観戦環境の陳腐化があげられています。また、気軽にスポーツなどを楽しんだり人々が自由に立ち入って緑を楽しめる空間が少ないこと、歩行者空間の不足による混雑や連続的なバリアフリー経路の不足などの課題を解消するためとも(いずれも東京都都市整備局のウェブサイトより)。
一方で、反対側の主張としては事業者による評価書には事実誤認があり、自然環境に多大な影響を与えかねないこと。特に再開発によってイチョウ並木の生育が阻害されるかもしれないということ、らしく。
町というものは変わることにも変わらないことにも意味や価値があると私は思っています。
完璧なものなんて存在しないのだから、より良いものに変えていく。それは人間が生きているかぎりずっとやり続けることで、だから町を変えることに大きな意味があるのです。
一方で、変えないことで生まれる価値もあります。百年続いた町並みはそれだけの歴史を背負うわけで、一言では語り尽くせない光景になります。よね? 伐採の対象となる樹木の中には樹齢百年のものがふくまれるかもしれないということで、それは感情的にも環境的にも反対意見が出るのは当然。樹木にも土地開発にも疎い私ですが、長い期間を経てどれほどの根が地中を巡っているのか、伐採によって土地にどれほどの影響を及ぼすのか、安易に伐採して大丈夫かい、とか考えてしまいます。
ただ、神宮外苑の再開発の問題について個人的な結論としては、やっぱりというか何というか、高層化なのねとなった次第。
東京都は五輪に合わせて国立競技場を建て替えるさい、特例措置を適用して神宮外苑の高さ制限をそれまでの十五メートルから一気に緩和。そこからさらに規制緩和して、今回の再開発では百八十メールだか百九十メートルのビルが建設可能になったようです。
物事には必ず理由があるものです。むしろ、それがないと困るのです。なぜ再開発なのか。なぜ高層建築が必要なのか。その「なぜ」に答えさえすればいいのです。でもちゃんと答えているようには見えない。老朽化した施設の建て替え? スポーツ振興? 緑を楽しめる空間をつくる? それにしてはおおがかりじゃないかい、とちょっと調べた私でも感じます。ちょっとしか調べていないからかもしれないけれど、大幅に町を変える理由としては説得力に欠けるんじゃないかなあと。
これはひとりごと。経済活動なら経済活動って言いなよ。それが法律にふれず、資本主義の競争原理にのっとっているなら、問題ないやん。今回の再開発には土地の大半を保有している明治神宮だって参加しているのだから胸を張ればいいやんか。
でもそれがない、あるいは不足していれば反対意見が出るのも当然。土地を持っている団体が都の認可を受けて開発するのだ、下々の連中は四の五の言うな、という態度に見られかねない。やりかたがまずいよなあ。邪推であり陰謀論じみているけれど、反対が出るのを想定して、それでもなお最初から押しきるつもりだったのかな。そんなふうに見えてしまいます。ほんっとうに、やりかたがまずいから。はい、ひとりごとです。
思うのですが、高層建築って必要?
人口が増加している傾向にあるならあらゆる建築物の高層化は必要です。だって日本の国土は狭いもの。でも超高齢化社会の人口減少傾向にある中で、オフィスであれマンションであれ、需要はあるのかな。わざわざ高層化する意味はあるのかなと。
思いだしたのは神宮外苑とは意味合いが異なるけれど、JR京都の駅ビル。あれも高層化によって景観が損なわれるとして反対運動があったはず。当時は気にも留めなかったけれど、今ならわかる。あれは失敗。あの駅ビルには京都らしさが欠片もない。日本が誇る観光地、京都の玄関口なのに京都らしさがぜんぜんないの。新しくなった金沢駅のほうがはるかに好き。はい、ひとりごとです。
でもあれだったら京阪を何とか無理やりなんばまで延伸して、南海と相互に乗り入れして、関空から京都までを一本でつないで、京阪の祇園四条を京都の玄関口にしたほうがよっぽどいいやん。地上に出たら京都南座が眼の前。河原町から錦市場へと歩いていける。京都の市バスを使えば主要観光地にはたいていつながっている。京阪だけで見ても途中に伏見稲荷。終点の出町柳からは叡山電鉄で鞍馬とか貴船とか比叡山へ。京都観光にはこれ以上ないくらいの流れができるのに。はい、これもひとりごとのうえ、話が大幅にそれました。
しかしまあ、何なのかね。大手の総合建設業者とか役所の都市開発課みたいなところで人を動かせる立場になったら、誰もが大きなものをつくりたくなるのかね。大きくて高くて立派なもの。男根思想みたい。というか古い男の価値観の表出みたい。でかいほうが偉い、みたいな。
たぶんこのまま反対意見はないものにされて再開発は進むんだろうな。という諦めを抱きがちだけれど、そうやってあきらめてきた結果が今の日本なのだとしたら、それこそ変えなくちゃいけないよなと思います。変わること、変えることに意味があると思います。でも暴力で物事を変えようとする輩は、存在そのものを許容しません。法治国家で物事を変えるには選挙しかない。つくづくそう思います。
次の東京都知事選挙は注視します。現在の都知事の任期は来年七月まで。再開発の反対に五万人とか八万人という署名が集まったのだから、再開発見直しを公約に掲げればいい戦いができるんじゃない? そしてもしかしたら変わるかもという機運が高まれば、じゃあ自分も今回は投票してみるかという気持ちになり、本当に物事は変わるんじゃない? 夢想家じみていますが私はそう信じています。破壊と暴力じゃ物事は変わらんのじゃアホタレ。
そんなことを考えつつ、再開発というか変化によって、それはあかんやんと思っちゃった例をさらりと書いておきます。もちろんひとりごとです。それは何かというと大阪市営地下鉄の民営化。
いや、民営化自体は時代の流れとか市の財政とかいろいろあるからいたしかたのないところもありますよ。でも気になるというか気に入らないところは、名称が変わったこと。みなさん、ご存じでしょうか。たぶん大阪や関西に住んでいる人じゃないと知らないかもしれません。『Osaka Metro』です。
もう一度、言います。大阪メトロです。
先日、運転中にAMの毎日放送を何となく聞いていたら、番組を進行していたアナウンサーのかたが谷町線のことを話していて「地下鉄」と言っていました。
そう、元大阪府民の私にとってもあれは「チカテツ」なのです(ちゃんと「カ」にアクセントをつけてね。「カテツ」が平板になってはいけないよ)。
現在利用しているほぼ全員が「チカテツ」と認識しているものに、なぜ「メトロ」という社名をつけたのか。『オオサカ・チカテツ』でよかったやん。日本に来た海外からの観光客のみなさんに「チカテツ」という言葉を覚えて帰ってもらおうよ。言葉の輸出は文化の輸出。自分たちのことを理解してもらう最もてっとりばやい手段だと思うのよ。少なくともおいらはこれから先もずっと「今、大阪駅に着いた。メトロでなんばまで行くからちょっと待っといて」などとは言わないよ。たぶんね。「もう恋なんてしない、なんて言わないよ絶対」の、もう恋なんてしない、ぐらいの重みです。
さて、今回もあります。ドラマ『ミディアム』にあの人がシリーズ。
今回はフィッシャー・スティーブンスさん! ブラックリストのマーヴィン・ジェラード役! しかし若い。髪が長い。やっぱり雰囲気がどこかおかしい!
ブラックリストといえば、次が最終シーズンらしいですね。あの話をどうまとめるのか。今から気になっております。
2023.4.8
今回は敬称略にてお送りします。
統一地方選です。あちこちで街頭演説がおこなわれていたり、ビラが配られていたり、街頭宣伝車が走っていたりしています。
選挙に勝つためにとにかく一人でも多くの有権者と握手しろ、というのはたしか田中角栄の教えだったと記憶しています。そのとおりだなと思います。どれだけ政策がすばらしくても理想が高くても、票を入れてもらえなければ意味がないわけで、長々と話すより笑顔で握手するほうが覚えてもらえるというもの。有権者だってどこの誰かもわからない人より、実際に顔を合わせて、いい人そうだなと思った人に一票を投じるだろうし。
その田中角栄の教えを受けた小沢一郎は選挙期間中、選挙区内のあちこちの寄り合いだったり集会に顔を出していたそうです。で、田舎の寄り合いだったり集会だから酒宴になっているわけで、そのたびに「先生、まあまあ一杯」と酒をすすめられ、「ありがたくちょうだいします」と呑み、次の寄り合いだったり集会だったりに向かう途中で今呑んだ酒を吐いて、次の場所でもすすめられる酒をことわることなく「では一杯だけ」といただいていたとか。自分の酒をことわらなかったとなると、そりゃその場にいた人たちの気分もよくなるし、先生を応援しますなんてことにもなるわな、と。そこまでしないと選挙には勝てないのだから大変だなと思います。この話はけっこう前に本で読んだだけで、多少あいまいなので話半分で。たださ、そんなことをしていれば体も壊すぜ。
一方、今回の選挙で私が住んでいるところは県議会議員選挙だけなので、立候補者の演説に遭遇することもなかったわけですが、街頭宣伝車はよく見かけました。ただし本人は乗っておらず、割れた音で名前を連呼するだけ。それって逆効果になりやしないかな。悪い意味で覚えられやしないかな、などと考えてしまうのです。昔ながらに一人でも多くの有権者と握手しろというのはこのご時世ではできないし、できたとしてはたして昔ほど効果があるのやら、だけどさ。
国を良くするには政治を良くするしかなく、政治を良くするには選挙しかなく、その選挙を今よりも意味のあるものにするには有権者が変える、あるいは変わるべきなのかな、なんてことを思います。
たとえば上記のような田舎のあちこちの寄り合いに挨拶に行かないと勝てない選挙区があったとして、来てくれた立候補者に「酒なんて呑まなくていいから当選したらどうしたいか話しなさい」とか「自分たちの要望とか問題を聞いていきなさい」と有権者側から言いだして、どうであれ一票を投じてくれさえすればいいという立候補者に対して本気で向き合えば、色々なことが変わっていく気がするんですよね。そういう形になってはじめて民主主義って機能すると思うんですよね。
有権者が本気で選挙のことを考えたら、女性も立候補しやすくなると思うのです。だって、上記のような土地柄の選挙区で女性が立候補したら、ね。田舎の酒宴で、立候補者は一票を入れてもらわなければいけない立場ですよ。となると一部の下品なおっさんが下品にふるまうのも、まあありうるよなと。以前に女性議員が選挙期間中のセクハラについて問題提起をしていたけれど、もっと大きく扱われていいはずです。
寝不足でいつも以上に散漫な文章ですが、そんな日もあります。とにかく、いろいろなことに思いを馳せながら明日は選挙にて一票を投じてきます。
では、今回もやっちゃいます。ドラマ『ミディアム』にあの人がシリーズ。
今回はモリーナ・バッカリンさん! 『ホームランド』で微妙な立場になってしまう妻役を繊細に演じていたすばらしい役者さん。もうね、お芝居もお顔もすてきすぎます。堪能しました。
2023.4.1
ひきつづきドラマ『ミディアム』を観ていて、現在はシーズン5なのですが、見つけましたよ。ということで「あの人がこんなところに」シリーズ。
シーズン5第二話(だったはず)にて、娘のアリエルが学校の宿題で人形の赤ちゃんを夫婦で育てることになり、夫役がクラスのイケメンで、やったね、という展開なのですが、そのイケメン君がどこかで見たことがある!となりまして。
ドラマのゲストキャラとしてうっすらと覚えていて、もしかしたら、などという浅いものじゃない。観ている最中に「こいつ、見たことある!」と叫ぶ程度には記憶に残っていて、しかし名前が出てこない。どのドラマだったかも思いだせない。でも確実に知ってる。オレこいつ知ってる。この雰囲気。しゃべり。何よりも顎! おかけで話が頭に入ってこない。
とりあえずその話を観たあとで冒頭を見返して、ゲストスターリングの項目をじっと見てみよう。名前だけで思いだせるかもしれない。ということで最初に戻ってみたら、ルーカス・ティル! ルーカス・ティルだ! リブート版のマクガイバーだ! 夜中に再び叫びましたよ、はい。そりゃあ記憶に残っているわけだ。特に顎。リブート版は全部観たのだから。
しかし若いころから飄々としていて、よいねルーカスさん。ちょい役とはいえ若いころにようやくもらった仕事だろうから気合いが入って、入りすぎて、肩の力が抜けなくてぎこちなくなったりしそうなものなのに。しゃべりの空気感というか、しゃべっている間にちょっとだけ入る笑みとかがルーカスさんのリズムで、このころから自然な芝居ができていたんだなあと感慨にふけってしまいました。
同じく第二話に出てくる悪役の女性が、他のドラマでもよく見かける人で、調べてみたらエミリー・バーグルさんというかただったのですか、単刀直入に言うとこの人の顔、めっちゃ好き。
特徴的というか、ぱっと見ただけで記憶に残る個性というか、「その人にしかない要素」みたいなものに強く惹かれるのですよ。この人の場合は顎じゃなくて眼。だいたい悪役での出演が多いのだけど、悪役ながらもちゃんと品があって、でも明らかに悪くて(ここが重要)、悪事がばれて逃げられなくなったときの表情とか、特に眼がすばらしいのです。
マクガイバーといえばエイミー・アッカーもゲスト出演していたなあ。あの人も美人なのに眼だけがどこかおかしな輝きを帯びていてすてきな悪役だったなあ。パーソン・オブ・インタレストでは着ぐるみとかかぶっていたなあ。また最初から観たいなあ。今年に入ってからすでに二回も書いているから、そろそろ本当に観るとするかな。ミディアムが終わったあとくらいにでも。
すてきな役者の芝居はいいな、楽しいな、と改めて思う四月一日でした。
2023.3.18
とある国際政治学者なる人物の夫が業務上横領で逮捕されて、あたりまえのように捜査情報が『捜査関係者の話』として報道されて、なんだかなあと嫌な気持ちになっていたら、WBC日本代表の連勝で世間の興味は完全にそっちに向かい、少しばかりほっとしている今日この頃。いや、国際政治学者なる人物に対しては特に興味はないんだけどね。
毎度ニューズウィーク日本版をネタに書くのはどうなんだと思いつつも、どうしても気になったので今回もちょっとだけ。
今週発売のニューズウィーク日本版にてコリン・ジョイス氏が、ジャニー喜多川の性犯罪を扱ったBBCのドキュメンタリーについてふれています。その文中にこうありました。一部を引用します。
「少なくとも英米の有名人のケースでは、ある種の矯正が見られる。その一部、BBCの人気司会者ジミー・サビルやマイケル・ジャクソンは死後ようやく恥がさらされた」
同じ号でパックン氏もこう書いていました。悪い意味の英語が肯定的なスラングに化けるという冒頭から「代表的な例はマイケル・ジャクソンのBad(悪い)。いつの間にか、マイケルがサビでI'm bad(俺はイケてるぜ)と繰り返すほど、良い意味になった。まあ、そのあと「元少年」の告発などもあって、本当に『俺、悪い奴』と歌っていた可能性も浮上したけど」
すみません私の勉強不足なのですが、マイケル・ジャクソンの性犯罪はいつ事実だったと証明されたんですか。
裁判では、かけられた容疑にかんしてすべて無罪の判決が出ているはず。マイケル・ジャクソンの死後、『リービング・ネバーランド』という性犯罪疑惑に迫ったとされるドキュメンタリーがつくられているけど、この内容が動かしがたい真実として認識されているの? でもこのドキュメンタリーって、公開直後にマイケル・ジャクソンの遺産管理団体が告発内容を否定しているし、マイケル・ジャクソンの自伝の著者や友人なども疑惑を否定するドキュメンタリーをつくったりしているよね。
それ以外でマイケル・ジャクソンの性犯罪を証明する何かしらがあるのだろうかと調べたけれど、あいにく時間がかぎられているので見つけられず。さらに『リービング・ネバーランド』も観ていないので、ドキュメンタリーそのものへの反論もできません(二部構成の四時間は長いって!)。
ただ、もしも前述のドキュメンタリーを論拠にマイケル・ジャクソンの性犯罪を事実のものとして扱っているとしたら(パックン氏のコラムでのとりあげかたはおもしろおかしくの悪ふざけだけれど)、ちょっと問題じゃないかい。と、ワールドワイドウェブの隅っこで言いたくなってしまうのです。だって本人は反論したくてもできないのだもの。マイケル・ジャクソンの周囲は反論していて、それでもなお疑惑は真実だということになり、周知の事実だとなってしまったら、当人の死後は言いたい放題になってしまうやん。それすらも有名税で飲みこまなくちゃいけないの?
子供を守らなければいけないのは当然。卑劣で異様な欲望を持つ大人から子供たちを守らなくちゃいけない。子供の弱さにつけこんで自分の犯罪について口を閉ざしておくよう脅す大人がいるのも事実。だからこそ大人が介入して子供を救わなくてはいけない。そのとおり。ただ、その正義感が暴走してありもしない性犯罪がでっちあげられたこともある。
アメリカの精神科医だったかセラピストだったかの事件。昔に読んだ資料なので詳細は調べなおさなくちゃいけないという前提で書きますが、その精神科医だったかセラピストだったかは「あなたが苦しいのは幼少期に父親から受けた性的虐待のせいだ。なぜあなたがそれを覚えていないのかというと、それがあまりに過酷な記憶だったから脳が封印したのだ」と患者に吹きこみ、患者はありもしない虐待の記憶をつくりあげていき、患者が父親を訴えるというさわぎにまで発展した。その後、訴えられた父親には無罪判決が出たけれど、家族の亀裂は修復できたのかどうか。記憶の曖昧さについてはいつかどこかで小説に使いたい題材なので詳述は避けますが、記憶って簡単に書き換えられちゃうものみたいです。
子供が被害者となる犯罪は特に難しい問題です。でも一方の主張だけで事実と認定するのは危険ではないでしょうか。だからこそ司法に委ねるべきだと私は思うのです。
もちろん法は完璧じゃないです。だってヒトがつくったものだもの。裁判官も人間だし。だから、きちんと時代に合わせて更新していく必要があります。偏見を偏見と認識していなかった時代の法を、それはおかしいやんという感覚にあてはめて改正して、その法に基づいて個々の容疑について有罪か否か、専門家である裁判官が法に基づいて判決をくだす。それしかないんじゃないかなあと。
マイケル・ジャクソンは裁判において無罪でした。多くの人員を投入したであろう捜査を経ての裁判にもかかわらず無罪だったんです。それでもなお、マイケル・ジャクソンの疑惑は事実だったとみんなが思っているとしたら裁判って何やねんってなるやん。
冒頭でも書きましたが、国際政治学者なる人物の夫が逮捕されて、捜査関係者の話という前提で捜査情報があたりまえのように地上波で報道されています(これだけでも公務員法違反だか何だか、だったよね)。そして報道される内容はどれも、逮捕された人物がさも重い罪を犯していましたといわんばかりのもの。出てくる映像や写真も人相が悪かったり、テレビ出演のときとは別人のような服装だったり。そうやって有罪であるかのような世論が形成される。今回に始まったことじゃなく、ずっと続けられてきたこと。もうやめようぜ。
最終的に有罪か否かを決めるのは捜査機関でもテレビでも大衆でもないよ。司法やで。くりかえすけれど、私は国際政治学者なる人物には特に興味はないんよ。叩きたければ叩けばいいさ。でも叩くなら有罪が確定してからにしようや。
それと、ジャニー喜多川の性犯罪は民事ながらも裁判において事実と認定されているから、これについてはちゃんと叩いていいと思うよ。地上波の報道番組とかでね。やらないだろうけれど。BBCのドキュメンタリーをどこかの局が放映してくれないかな。できるとすればNHKしかないのかな。むしろそれをやってこそ公共放送だろうと無責任に思っています。
ちょっとのつもりが長くなっちゃった。そしてオチもないのです。
2023.3.11
更新は3月10日だけれど、3月11日ということで。
先日、プルサーマルについて軽く書いたけれど、まじめな話として原子力発電について今後どうするのかを本気で論じてほしいなあと考えるわけです。3月11日だから。
今も帰還困難区域が福島県の一部には残っていて、帰還困難って言ってしまえば人が住めない場所ということで、このせまい日本でそんな場所をつくってしまった原因である原子力発電は、やはり人間の手には負えないんじゃないか、とか考えたりもします。一方、現時点で最も効率的にエネルギーを生みだせる発電方法が原子力なのも事実。安全で、原子力発電よりも高効率の発電方法があれば何も文句はないけれど、そんな都合のよいものは世界のどこにもなく。
じゃあどうすればよいのやら、となるわけです。
こういうことを書くときは批判や文句で終わらせるのではなく、最低限、思いつきでもでたらめでもいいから案のひとつは出しておくべきだと自らに勝手に課しています。だって批判なら誰だってできるもの。それは無責任やで。とはいえ、いい案が思いつくのなら私はとっくに政治家なり科学者なり(あるいはそれっぽく論じる知識人ぶった何かしら)をやっているわけで。
とりあえず私の考えは、原子力発電の再稼働については条件つきで容認。ただし炉の稼働期間を延ばすのは慎重に。で、条件としては発電事業を国営にして送電のみを民間事業にする。こうすれば発電については収支よりも安全を第一に考えられるんじゃないかと。収益とか株主利益に追われると、どうしたって数百年に一度の大災害への備えは優先順位が低くなるもの(東日本大震災以前の株主総会とかで、数百年に一度の災害にこれだけのカネをかけて対策するのは非現実的で株主利益を棄損している、みたいな発言があったとしてもなんら不思議じゃないし)。
そのうえで国営化した電力会社の役員人事を議会承認案件にして、発電所の所長人事も、衆参の経済産業委員会の議題にするとか、それとは別に特別委員会を設置して具体的な議論をする、とか。
ただしこれは発電事業を担う国営企業の役員や上級職が国家公務員として、国民が求めるレベルで仕事をしてくれるならば、の話。と言いだすと、それは無理だわって結論になっちゃいそう。書いている私も絵空事だなこれ、と内心では思っているもの。だからといって市場原理が原子力発電所の安全性を担保してくれるとはかぎらないのでして。担保してくれるなら福島原発の事故は起こっていないのだから。
電気にかぎらず、ガスも水道も、なんなら食料自給率だって我々が生きることに直結するもの。それを政治の場で真剣に論じてほしいなあ。今も各委員会でやっているのだろうけれど、外から見ていると自分の議席を守りたいばっかりに原子力発電の再稼働の是非すらぼやかしている議員が多くいやしないかい、なんて印象を持ってしまいまして。
ここ最近、政治について書きたくなっているのは、いま書いている小説に政治の要素が薄いからかも。本にもなっていないのに、書きたいことばかりが増えております。
2023.3.10
プロレスリング・ノアの原田大輔、引退。
頚椎の亜脱臼によるドクターストップ。自覚症状はないけれど、このままプロレスを続けていたら命にかかわるということで本人にとっては苦渋の決断だったと思います。
ただ、一人のプロレスファンとしてはものすごく勇気のある大英断だったと感じています。ようやく会場での声だしが可能になってきて、ノアにかぎらず新日本の選手も全日本の選手もプロレス全体を盛りあげていこうと意気込んでいる中にあって、事故は絶対にあってはならないことです。
しかもノアにかんしてはプロレス界最大といってもいいくらいの事故が過去にあり、二度と起こしてはいけない。だからこそ原田選手は引退を決断したのだろうと推察します。
そして3月9日。引退試合は1分のエキシビジョン。すばらしい試合でした。腹部へのエルボーの威力にテレビの前で「うおっ」と叫んでしまいました。
心からサムズアップしたい引退試合だった。プロレスファンでよかったよ、ほんと。
2023.3.9
現在の経済安全保障担当大臣にして元総務大臣が、総務省の行政文書における大臣時代の自身の発言は捏造だと否定しちゃったのって、もし本当に捏造だったら少なくとも戦後日本のすべての行政文書の信用が問われかねない大問題になっちゃうわけで、それって大丈夫かよ?と思ってしまう今日この頃。
この問題、参議院での出席するかしないか謝るか謝らないかというクソみたいな話題よりもはるかに大きく報じられなくちゃいけないことだし、この国の立法府と行政府をまるごと揺るがしかねない事態なのだけど、そもそもの話としてなぜこんなことになっちゃったのだろね。
捏造という主張におどろいてしまって「うわぁ」という感想しかないのだけれど、とりあえずもし自分が小説としてこの場面を書くなら、「行政文書の否定は国の根幹にかかわる、わかった自分が泥をかぶる」と国益のために言ってもいない発言を自身のこととして認めて、その後は世間からの批判を一身に浴びてなお耐える政治家という描写をするだろうなあ。もちろんそこには表沙汰にできない政権と総務省のいびつな関係みたいなのがあって、という設定にして。いや、すみません。こんなのしか言えないや。それくらいおどろいちゃった。
今週のニューズウィーク日本版で特集されていた『悪習慣ループ』という記事。おもしろかった。
ソーシャルメディアで偽情報を最初に流すのは偏見の持ち主や差別主義者かもしれないけど、それを拡散させているのは無意識の習慣かもしれないという仮定。フェイスブックのアクティブユーザーに情報をシェア(いいねとかのボタンを押したり)する頻度と、シェアするまでどの程度考えたかについてのアンケートで、情報をあまりシェアしない人は頻繁にシェアする人に比べて情報の内容を四倍近く吟味していることがわかった、という。そして現在のソーシャルメディアは「いいね」の数が多いものほど上位に表示される。だから偽情報が広まりやすい、ということみたい。
「いいね」などのボタンを押すときは、本当に自分がサムズアップしたくなるものかどうかを時間をかけて考えてからにしたほうがいいよね。「いいね」の意図はなく「なんやこいつ」という場合にももしかしたら「いいね」ボタンを押しているかもしれないけど、「よくない」ものとか真偽が疑わしいものは無視するのがいいのかも。そうすれば炎上さわぎも抑えられて、ソーシャルメディアを今よりもっと楽しく使えるようになるかも。という意見は能天気な理想主義じみているかな。でもツールとしておもしろいものだから楽しく使いたいやん。そのための環境とか雰囲気もユーザー次第なわけで。
それはそれとして、私が新作関連の話題をツイッターなどでつぶやいたときはみなさま、盛大に「いいね」とかリツイートとか、してね。サムズアップする気がないときは、どうにかしてその気になってね。すごく願っています。それはもう心から、切実に願っています。うひひ。
今も海外ドラマ『ミディアム』を観ているのだけれど、昔のドラマにはいろいろと発見があってよいね。シーズン1では若いラミ・マレックが多重人格者(を装う犯罪者)役で出ていて、顔が変わってないし、『プロディガル・サン』でファンキーな母親役だったベラミー・ヤングが出ていたり。シーズン3ではこれまた若いジェニファー・ローレンスが出演していたり(このころから存在感がすんごい)。
ということは以前に一度観たものにも新たな発見があるかもしれず、『パーソン・オブ・インタレスト』とかマギーQ版の『ニキータ』とか全シーズンを観たいなあ。などと時間もないのに思ってしまっております。
2023.2.28
虫を題材に小説を書いている私ですが、本当に必要に迫られんかぎりコオロギなんか食わねえからなと誓っております。
どれだけ地球環境に優しいとか何とか言われようと、本当にコオロギを食うしかないのかよって思うもの。そりゃあ一匹あたりのたんぱく質の量は多いでしょうよ(虫はスゴいんだぞ)。でも既存の食材にコオロギの粉を混ぜて、コオロギを育てるのに必要な資源はウシの何万分の一です、これこそ気候変動対策の切り札です、みたいに言われてもさ。効果が小さくないかい、と。
だからといって純度100%コオロギですといううたい文句の、きっと何十匹も使ったであろう小さな加工食品を出されて、これで一日分のたんぱく質を摂取できますって言われても困ってしまうわけで。だってそんなのじゃ腹は満たされないもの。
本当に推進するの?コオロギ食を。何事もやらないよりやってみたほうがいいとは思うけど、効果に対して現状の補助金などの規模は適切なの? などという疑問を抱くばかりなり。
実際のところ、スタートレックのレプリケーターばりに食べ物がつくられて、材料は実はコオロギなんですとかいうことにでもなれば興味はわくし、そういうわくわくするものであれば私は躊躇なくそして率先して食べるでしょう。でも現時点ではパフォーマンスの域を出ていない気がするなあ。
なんかこういうのって、エネルギー問題を解決すればうまくいく気がしてしまうのです。気候変動に影響しないクリーンなエネルギーが継続して供給できて、それを農業や畜産に回せば、結果としてコオロギを養殖するよりも環境負荷の低い経済活動ができる気がするのです。楽観的だなと自分でも思うけど。
じゃあクリーンなエネルギーってなんぞやとなると、先々週あたりにニューズウィーク日本版で特集していた核融合点火が将来的にはとても有望だけれど、現時点ではまだまだ実用化にはほど遠いみたいで、だったら考えられるのはプルサーマルなのかなあと。研究を進めてプルトニウムの割合を増やしたり発電量を高めて経済的な効果をあげられれば、少ない資源で発電できて、余りに余っているプルトニウムを有効活用できて、手のつけようがない核廃棄物も半減期の短いものになるのにってね。はい、楽観の極みです。核燃料再処理工場の完成すら延期に延期を重ねて、今だ目処すら立っていないみたいで、コオロギ補助金の比じゃないくらいのカネを投じていますから(ちゃんと比べたわけじゃないけど、原子力政策関連の予算よりコオロギのほうが高いなんてことはないよね)。
とりあえず食事はバランスよく、肉ばっかり食わず、量もほどほどに。それだけで世界は変わる気がするのです。これじゃ楽観というより夢想やな。でもそのくらいしかやりようがないものね。少なくともコオロギを食うよりは現実的な気がします、はい。
2023.2.24
楽観と悲観がごっちゃごちゃに入り交じっております。
元来、私は楽観的な人間なのですけど、そんな私でも昨今の世界情勢ってやつを前にすると悲観的になってしまいます。だって理性を失った連中がやけくそになってボタンをぽちっとなとやってしまって、でかいミサイルがあたってはいけないところにあってしまったら、当然やられた側は反撃するわけで、あっというまに世界は取り返しがつかない事態に陥るのですから。
さすがにそこまでにはならんやろ、そんなことをしたら自分も終わりやねんから。と以前は軽く考えていたのだけれど、まあ大丈夫やろと言えなくなっている自分に最近気づいたのは、ロシアのウクライナ侵攻が長期化しているから? あるいは新型コロナによってあたりまえの日常はあたりまえなんかじゃなく簡単に壊れるものだと体感してしまったから?
悲観的な言い草だなと我ながら思います。思いますが、そんなんあれへんって、と笑い飛ばせなくなっているのもまた事実。争いごとは疲れる。嫌だ嫌だ。
気を取り直して、『スタートレック・ピカード』の話。
やっぱり生活がばたばたしていて、スーパードラマTVで放映中のやつを毎週一話ずつ観ていこうと思っていたのに二週間ほど録画が溜まり続けてしまい、ようやく今日になって二話を一気に観たのですが、観たのですが、セブン・オブ・ナインが出てるやん!
実はスタートレックシリーズは『ヴォイジャー』がいちばん好きなのです。だからセブン・オブ・ナインが出てきたときは、そりゃあもうはしゃいでしまいましたよ、はい。セブンやん、セブンやん、セブンやんって三回口に出して言うてしまいましたよ。
こんなことなら『ピカード』を配信当時に観ておけばよかった。でも自分が本心から「観たい、観よう」という状態で視聴できたからこそ喜びも爆発したのかもしれず、そう考えると今でよかったのかも、とも。
ただね、こうも考えるのです。もし私と同じように『ヴォイジャー』が好きで、でも『ピカード』はどうなんやろ興味はあるけれどさ、ぐらいの人が仮にいたとして、その人が『ピカード』の内容とか評価はどうなんかなと検索してワールドワイドウェブをさまよって、たまたまここにたどり着いてしまって、「セブンが出るんや、だったら観てみよ!」となった場合、私が感じた喜びをその人は得られないわけで。
だったらこういう話はしないほうがいいのやも。でも言いたいのだからしょうがない。おどろいたし嬉しかったのだもの。考えた結果、こうして書いちゃっているわけで、万が一前述のようなかたがここにいらしたら、ごめんねっ(世界中のありとあらゆる争いごとはこの一言で片づけようぜ、そろそろ)。
情報は大切で、調べるのも大事だけれど、興味があっていつかふれようと思っている本や映画やドラマや音楽、ゲームなどは自らが接するまで検索したり調べないほうがいいよな。検索に頼りすぎて世界を知った気になるのは違うよな(とか言いだすと話がそれるうえに誇大妄想じみているかな)、などと思う日々です。
ちゃんと原稿もやっています。まだ加速にはいたっていないけれど、そろそろ。
2023.2.10
目立つためなら手段を選ばない少数の阿呆がいる一方で、回転寿司を応援しようという多数の声も同じソーシャルメディア上で起こるのって、なんか人間社会をそっくりそのままミニチュアにしたみたいで興味深いな、などと思う今日この頃。
慣れていないだけなのだろうけれど、どうにも配信という形ではドラマって視聴しにくいんよなと思ってさわらずにいた『スタートレック・ピカード』、そのシーズン1がスーパードラマTVで放映開始ということで、それならばと観始めたら、『ブラインド・スポット』に出てきた悪役さんが出演していて、顔とか髪形がまあとにかく印象深くて魅力があって、それだけで一気に興味と期待がふくらむ程度には単純な私です。
ただ、配信を前提にした製作だからなのか、テレビシリーズの尺のわりにはスロースタートですな。上記の役者さんと、正月に体調を崩して録画を放置していて三話分を一気に観たおかげで流れにすんなり乗ることができたけれど、一話ずつだとうまく乗れなかったかも。たしか『ディスカバリー』も最初はゆっくりだったような記憶があって、もしかしたら最近のスタートレックシリーズの傾向なのかもね。元々スタートレックシリーズって最初とか中盤の盛りあがりとか最終話あたりは二話でつながっていたわけだし。
海外ドラマでもうひとつ。これは古めのやつだけれど『ミディアム 霊能捜査官アリソン・デュボア』がかなり気に入っています。
FOXで常に放映されていて存在は知っていたけれど、邦題のB級感のせいで観る気が起きなくて。でも深夜に酒を呑みながら何となく観ていたら、演出がね、いいのよ。ただ霊能力者が事件を解決する物語などではなく、能力があるがゆえの苦しみとか、生活があって家族がいて、夫はアリソンの能力を理解してくれているけれどたまに我慢できなくて衝突したり、家族団欒の場面が芝居を超えて心から楽しんでいるのが感じられたり、それでいて一話ごとの落としかたが言葉は少なめ余韻はたっぷりで。完全に好み。
昨日調べたらディズニープラスのFOX系のドラマのカテゴリーには入っていなくて第一話から追えないという。CSのFOXチャンネルでシーズン1から再び放映しているので、途中からですが追いかけてみます。
さて、ツイッターが何やら騒がしくなっております。ソーシャルメディアの凋落は一瞬。ほんの些細なことがきっかけであっというまに規模が縮小してしまうものです。ツイッターはどうなることやら。これからは一社のサービスに依存することなく複数のサービスにまたがっておいたほうがいいのかな。
でも実はもうひとつ、匿名のアカウントも持っていて、そっちはツイッターでしかつながっていない人もいて、そうなると別のサービスに切り替えるのもなかなか大変で、そういう意味ではただのサービスじゃなくてメディアであり、おおげさに言うならライフラインの次くらいに大きいものだよ、俗に言うSNSってやつはさ。などと思ったりもするのです。
とりあえずつくるだけつくってまったく使っていなかったミクシィへのログインでも試みてみますか。
2023.2.2
どういう形であれ目立ってしまえばいいという風潮はいいかげんやめようぜ、と言いたくてしょうがない今日この頃(最近にかぎった話でもないか)。
正月の風邪がそこそこ長引いて、体調を整えつつ片づけたいものを片づけている間にもう二月。ようやく執筆作業は加速してきています。現在取り組んでいる原稿は、今のところ出版化の目処などはいっさい立っていないけれども、いい感じなのです。軽くて、暴走していて、それでいて抑えるところは抑えていて。まずはそれを仕上げるべく集中。
それはそれとして、けっこう簡単に影響を受けやすい私。最近視聴したものではナショナル・ジオ・グラフィックの『潜入!ブラックマーケットの実態シーズン2』がとてもすぐれたドキュメンタリーでして、これは考えさせられましたね。
アマゾンの熱帯雨林で木材の違法伐採が横行しているのは、木材がカネになるからではなく、その土地から採掘できる金が目的で、その金はスマートフォンや家電製品に使われているからそもそも世界的な需要があるところに、どこぞの国がしかけた戦争によって資産としての金自体が値上がりしているから、そりゃあ違法伐採はなくなるはずもなく、熱帯雨林は信じられない速度で消滅しているという。
違法漁業の回でもなるほどなと思わせられました。遠洋漁業は国をまたいでおこなわれるために取り締まりが難しく、違法業者は資本に物を言わせたでかい漁船で他国の海に乗りつけて、目の細かい違法の網で制限量を超える魚をごっそりすくい取っても、それをいくつかの漁港に分けておろせば発覚しにくい。そして一度市場に入ってしまったらその魚が合法で捕った魚なのか違法で捕ったのかの判別などできるはずもないという状態。そうなると地元の漁師は魚が捕れなくなり、違法漁船が高額で売れないからと海に捨てていた(文字通りの)雑魚を買い取らざるをえなくなる。で、それを地元の市場で売ったら、余った魚でも地元の連中に売りつければ金になると知った違法漁船がより多くの魚をかっさらうようになり、その地域では違法漁船から買わないと食べるという面でも経済という面でもなりたたなくなってしまったという。そして大資本による大規模な漁業によって、過去に例のない速度で海洋資源が失われているという。
そして森林伐採でも違法漁業でもそうだけれど、儲けているのは現場の違法労働者ではなく、安く買って高く売る先進国の連中という現実。そういうのを映像で見せられるとね。我がこととしては小さいけれども、手元にあるiPhoneをながめて、軽い気持ちで機種変更できんなという気になるし、魚を買うときも合法か違法かわからない海外産のやつじゃなく、とりあえず養殖にするかという気になってしまいます。
世の中に知らないことはまだまだいっぱいあります。世界を変える力はないけれども、ちっぽけな人間だからこそ考えることだけはやめずにいたいものです。
2023.1.22
新年あけましておめでとうございます。
というご挨拶を一月も半ばをすぎた時期にやってしまうという、ね。実は正月早々に熱を出してしまい、どうせ病院は休みなのだからと自ら布団に潜りこんで寝込んで何とかしました。結果、熱はおさまったのですが、喉の痛みはこれまでの人生で経験がないくらいのものでしたね。それもある日を境に急におさまったりしたのですが。はてさて、私がかかったのは新型コロナだったのかインフルエンザだったのか。
ようやく回復した今、放置していた諸々のことに取りかかることができそうです。
ということで今年もよろしくお願いいたします。
2022.12.30
いや、おどろきましたね。もう年末ですよ。
自分のウェブサイトなのだから定期的に更新しなくてはと思っていたのですが、ソフトウェアのアップデートとか再びパスワードを求められたりとかして、時間があるときに設定しようと後回しにしていたら、私生活がけっこうばたばたしてしまい、このざまでやんす。
年末にはちゃんと書こうということは以前から考えていて、やるならば最終週に連日更新してちょっとでも取り返せれば、などと企んでいて、それなりにネタも練っていたのに結果としてばたばたのまま今日になり、取り返すどころか、ですよ。ひとつのことにかかりっきりになると他が完全におろそかになるこの習性は直していかないとねえ。
とりあえず近況の報告を
現在進行しているのは、日本ファンタジーノベル大賞受賞者有志による短編アンソロジー『万象3』です。来年には刊行されるはずなのですが、短編っていうてるのに私の長編がばっちり掲載されます。我が所業ながら、もはや暴発。これについては刊行直前にツイッターとか、このページなどで色々と書いていくつもりです。
では、ここからは細かいことをつらつらと。
今年はインディ系のゲームを空いた時間に遊んでいた気がします。その中でも『Telling Lies』と『immortality』は気がついたら楽しんでいましたね。
どちらもサム・バーロウという製作者が手がけた実写のアドベンチャーゲームで、どちらも断片的な映像を追いかけていく内に物語の本当の姿が見えてくるというもの。『Telling Lies』は字幕に出てくる単語を検索するとつながりのある新たな映像が、『immortality』は登場人物の顔や、腕時計や花などをクリックすると関連する次の映像が出てきて、その映像の中の何がしかをクリックして次の映像へ、といった具合で進めていきます。
最初は何のことやらわけわからん、となるわけです。短い映像をだらだら観ているだけなのだから。でもクリックするたびに観たことのない映像が現れて、そこからまた違う人物も現れて、ちょっとずつ異様な雰囲気になっていって、『immortality』にいたってはクリックとは違う操作によって元の映像とは異なる何かしらが現れて。なんやろこれ、と漫然とながめているうちに気がついたらやめられなくなっているのです。
この感覚は、昔ながらのクリック式アドベンチャーゲームに近いのかも。でもって、こちらの操作に対して反応が膨大に用意されていて、常に新しい何かが見つかるから、まあ飽きない。もうちょっと試してみよう、もうちょっと続けてみようとかやっていって、寝なくちゃならんのにいつのまにか深夜ですよ。
どちらもおもしろいゲームなのですが、『Telling Lies』のほうがわかりやすいかな。『immortality』はけっこう癖があるうえ、古い映画の断片的な場面ということもあって、ばっちり女性の裸が出てきます。おっぱいをクリックして別のおっぱい映像に飛んだりもします。エロさはないけどね。むしろえぐみが強い。おそらくこれは映像業界の闇を描くことを意図した表現だろうから。
来年はひとまずゲームパスに復活して、モンスターハンターライズなるものを触ってみようかなと思っています。実はモンハンはちゃんと遊んだことがないので、どうなるやら。
あとは、ひとりごとを。
正月が商戦として大事なのはわかるし、大晦日の閉店後から初売りの準備では大変だから年内の早いうちから売り場をつくっておきたいのもわかるけれど、福袋の販売、いくらなんだって早すぎやしませんかね。
12月も半ばぐらいから売り場にならんでいて、おめでたさも何もあれへんやん、と思うのです。とか言うてて、私は買わないんだけれどね、福袋。
現状の当方について。
本当のことを言うと、『万象3』にて発表予定の長編の他に、今年中に二作ほど書きあげる予定だったのです。正直なところ、次は完全に未定になっていて、このままじゃただ消えるだけで、どうせ待っていたってチャンスなど来やしないのだから、こっちから売りこんでいくしかない、それならば商材である長編を完成させよう、と。春ぐらいから意気ごんで、執筆していたのです。
結果は、一作も仕上がらず。
あとちょっとというところで完成には届きませんでした。来年の初頭には一作を完成させて、次に取りかかりつつ、どうにかこうにか売りこんでいきたいな、と。
待っていたってチャンスなどこないと上に書いたばかりですが、うちでどう?みたいな話は心の底からウェルカムなので、そういう話が来ればいいなあ、と初詣でで祈っておくです。
そんな感じで2022年は終了。
来年はもうちょっと頻繁にここの更新をやり、ツイッターなどでも発言して、忘れられないようにしがみついていきます。とはいえ、やっぱり姿が見えなくなったら、地べたを這ってあがいているんだな、と想像していただければ。
ではみなさま、よいお年を
2022.1.8
新年あけましておめでとうございます。
今年も低速かつ低空ながら、ひとつずつやっていこうかと思っています。ちなみに去年の分のひとりごとは記録としてこちらに残しております。もろもろの問題によってまごうことなきプレーンテキストになってしまっていて読みにくいことこのうえないですが、最近になって当方の小説を読んでここをのぞいてくれたかたがいらっしゃいましたら、よろしければこちらもお楽しみいただければ。
そんなわけで現在は情報の収集と栄養の摂取のため、次の長編では使わないであろう資料を読みあさっている最中。あらためていうのもあれだけれど、世の中には知らないことがほんっとうに多いわけで。
そんななかで、なんか脳みそにひっかかっている事柄を、あきれるほど抽象的に記載。
自分の主張が主流派に認められない→主流派のほうが間違っている→主流派は事実を自分たちの利益のために事実をねじ曲げている→さまざまな論文やら事象から都合のいい部分だけを抜きだして、正しいのは自分だと強く主張する。
この論理は、科学の不確実性の前ではめっぽう効果的で、主張を覆すには科学的根拠に基づいた反論が必要。でも科学的根拠に基づいた反論というのは専門的で、一般社会にまで届かない。結果、必ずしも科学的に正しくない主張が世間には正しいこととして伝わってしまう。
世の中には知らないことのほうがはるかに多いのだという謙虚さを忘れずにいたいものです。
では本年もどうぞよろしくお願いいたします。