ひとりごと

2021.12.29
気がついたらもう年末でして。

とっくに片づけていないといけない懸案事項をようやく昨日片づけて、今年はもう何もしないぞという気持ちなので、みなさまに本年最後のご挨拶を。

今年は新作『精密と凶暴』と『ブレイン・ドレイン』文庫版を世に出すことができました。手に取って読んでいただいたみなさま、本当にありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

今後についてはまだ未定ですが、来年も何かしらの形で書いたものを発表できるよう努力していきます。おもしろかったとか時間を忘れて読みふけったとか、もっと読みたいと言っていただけるような小説を全力で投げつけていきますので、ぜひぜひ次回作も手に取ってくださいませ。

それでは私の2021年はこれにて終わり。2022年もよろしくお願いいたします。

2021.10.18
唐突に思いだしてしまいまして。

CSのチャンネルをいろいろと切り替えているときに、ある映画が眼にとまり、前後の物語の流れとか人間関係とか全体像とかまったくわからないのに何となく興味を覚えて観始めて、気がついたら最後まで観てしまっていたわけです。

この感覚なのです。

こういう本を書きたいと昔から思っていたんですよね。書店とか図書館とかで何となく手に取り、何となく紙をめくって、そうしたら文字とか文章が眼にとまって、無意識に読み始めて、気がついたら読むのがとまらなくなって、これは最初から読んでみよかな、という気にさせるやつ。

ワタシ自身の執筆としては、そのために一節とか一行とか一文字をこだわりすぎて、書きあげるのに時間がかかってしまうというありさまなのだけど、でもどこから読んでもおもしろくて、おもしろいから最初から味わおうと思える。そういう本を書きたかったんだよな昔から。などと思いだしたのです。

そして、まだそこまで至っていない自分にいらいらしつつも、いつかそういうもんを書いてやると鼻息を荒くしているわけです。ひとまず眼の前のことを片づけないといけないわけですが。

ちなみにそれを思いだしたのはついさっき。FOXチャンネルで放映されていた「サイダーハウスルール」という映画でした。今しがた観たところなので映画そのものは最初から追いかけてはいません。落ちついたら観ますです。

2021.9.21
7月から節制しておりまして。

これまでずっと避けていた健康診断なるものを、やはりそろそろ受けておかにゃならんよな、大病とか患ったらあとあと面倒だしと考えて、そのためには万全の態勢で臨んでやると節制に取り組んでおりました。

とはいうものの、やったことは揚げ物を控えるとか、食前に野菜ジュースを飲むとか、適度な運動とか、その程度やけど。根っからインドアなもので、ワタシ。

結果、健康診断の時点で体重は三キロ減。血液検査の結果はまだだけど、当日のわかる内容はとりあえず問題なし。血圧以外は。諸々の数値を見た問診の医者から「なんで血圧、高いの?」とか訊かれる始末。いや、家系としか言いようがなく。

ということで血圧をさげるべく節制を継続中です。現在は体重で四キロ減。おかげで十年くらい前に買って、ぱつんぱつんになっていたズボンがすんなりはけるようになりました。一方、最近の体形に合わせて買ったジーパンはだらんだらんになっていました。日本ファンタジーノベル大賞受賞時に新調したスーツも、どうにもこうにもズボンが入らなくてあきらめていたのですが、今ならいけるかもしれない。体調管理って大事。

ただ、この前ひさしぶりに唐揚げを食うたらさ、うまいのなんのって。たまらんね。肉。

とはいえ、たまに自分を堕落させつつも締めるところは締めて、何とかして血圧をさげてやろうかと決意を新たにしております。だって飲みたくないんだもの、薬。

新作のための燃料もようやく溜まってきて、そろそろ本格的に動きだしますので、今後は更新頻度が落ちるはずですが、よろしければたまにでよいので、このページをのぞいていただければ。

新作の燃料補給と言いつつ、一般相対性理論やら重力レンズやら弦理論やらループ量子重力理学やら宇宙定数やらに眼を奪われて寄り道して作業が遅れたりしておりますが、次は軽いものを書く予定です。

2021.9.9
否定だけじゃ何も生まれないよなと、しみじみ思うわけです。

自分自身に何かあったというわけじゃないのです。ただ、ワールドワイドなウェブをさまよっていると、論評なのか主張なのか自身の偏向の吐露なのかわからないけど、そういった類いのものがあふれていて、それらの大半が物事を否定することにばかり情熱をかたむけている。そんな気がしてならないのです。

そんなもんは見なけりゃいいだけなのだけれど、ブラウザを立ちあげているとどうしたって眼に入ってしまうし、見てしまったら記憶を消す以外に忘れる方法はなくて。

せめて否定だけじゃなく、どうしたらそのよくない物事がよくなるか、という意見も添えてほしいなあ。こうすればよくなるのにとか、こうすればおもしろくなるかも、という考えを否定と合わせて提示してくれれば、ワールドワイドなウェブに蔓延している論評だか自己の主張だとかも、もうちょっとはおもしろくなるのに。

他人のことをとやかく言えない程度にワタシも物事を否定しがちなので、自らへの戒めをこめて記しておきます。

ちょっとした懸案事項に取りかかっている間に「刑事カーディナル 凍てつく夜に」が最終回を迎えていて、録画していたのを一気に視聴。

画面を占めるのは寒々とした景色。演出は抑えがきいていて、役者の芝居は常に静かで、でもここぞというときには感情が画面からにじみ出て、その芝居がまた素晴らしくて。しかも最後はめいっぱい余韻を残してくれて。すごく心に残る作品でした。

ここまでは感想。ここからは愚痴。

もう一度シーズン1から観ようかな観たいなと思ったのですけど、どうやらどのサブスクリプションにも入っていないっぽい。もしかしたらあるかもしれないけれど、さっき検索したらどこにもなかったです。カナダのドラマはだめっすか。だめなんだろうなあ。たぶんレンタルもないんやろうなあ。スーパードラマTVの再放送を期待するしかないか。

いい作品が埋もれるのは悲しいなあ。などと感じるのはおそらく、自分の本もそう思ってもらいたいから。

2021.8.30
熱帯夜なのに軽く走っていて、汗だくになりながら、そういえばフジロックについて書き忘れていたと思いだして、追記。

経産省がフジロックに補助金を支出。

で、補助金をもらって運営しているのに出演しているバンドは新型コロナ対策について政府の対応を批判していて、かっこわるっ、という言説が一部であがっていた。と記憶しています。

あのさ、それって裏を返せば、政府からカネをもらってライブをやっているやつが政府の悪口なんぞ言うなってこと? もっと言うとカネを出してくれた政府を称賛しろってこと? あるいはこの状況での開催にもかかわらず新型コロナ感染のあれこれを舞台でしゃべるなってこと?

どこの独裁国家やねん。

補助金の原資は何? 税金でしょ。その税金は誰のもの? 政府でも政権与党でも、ましてや各省庁のものでもないよ。国民のものやで。

国民が望んでいないものに税金を支出しているなら文句を言うべきですが、国民が望んでいて、あるいは反対するほどでもなくて、もしくは意味があるからやればいいと思う、ぐらいの意見であれば補助金ぐらい出そうぜ。きれいごとで飯は食えないし、きれいごとを装ったプロパガンダなら飯は食えるけど、(ロックなどの大衆音楽もふくむ)芸術ってやつはもっと飯が食えないもんなんだから。

で、補助金をもらおうが何をしようが、そのステージで政府を批判するのは表現の自由やんか。それすら許さない、政府によって不都合なことは言うな、というのは言論の封殺ですよ。そんなロックフェスティバルを観たい? そんなエンターテインメントを心から楽しめる? 俺は無理だわ。権力者が大衆の毒抜きに音楽を利用しているだけやもん。たしか、過去にもそんなことがあったよな。それで泥沼になったよな。隣の国でも遠く離れた国でもなく、この国でさ。

ビートルズも戦争も知らないけど(by田村直美)、我々が歴史から学ぶことは、我々が考える以上に多いのではないかと感じています。

とはいえ、できれば民間企業からの協賛金と広告料だけで運営してほしかったけどね。権力には迎合しないという姿勢をつらぬくって意味でね。ま、これもきれいごとか。

この題材、どっかで自分の物語にも放りこんだろ。

2021.8.30
やけに涼しいな最近、と思っていたら一気に真夏日になっちまいやがって、完全にばてている今日この頃。ぶつ切りにて。

・感染対策を無視した音楽フェスティバルが批判されている

まあこうなるわな。歯止めがきかなくなって、今後こういうのが増えないことを祈るよ。増えそうやけど。

サマーソニックとかフジロックとか歴史のある催しものなら評判やら来年以降の開催も考慮して自重するだろうけどさ。そんなつもりもなく、こんなご時世だし、ばかさわぎができますよと宣伝すればヒトが集まって金もうけできるやんと考える連中にとっては、一回きりのやったもん勝ちのやり逃げだものね。

そこに、どんなことをしてでも批判を浴びてでも話題になりたい名前を売りたいバントやらミュージシャンなどが参加して、みんなで赤信号を渡ってはしゃいで大惨事。とか、なりかねないよなとも思うわけで。

そんなのを、ははは、と冷笑してしまう程度には遠くから事態をながめています。

・東京パラリンピックにて、学校連携観戦を引率した教師が感染

千葉県は観戦を中止するとのこと。遅きに失した、だと厳しい言いかたかな。とにもかくにも、感染した教師が責められないといいけど。どれだけ注意しても感染するときはしてしまうらしく、それだけ感染力が強いから恐ろしいのであって、感染したという事実をもって個人への批判とか否定につながってほしくないなと思う。教師からすれば仕事でやらざるをえなかったのだし。

・自民党総裁選

納得できる具体的な論拠もなく自分たちの都合だけで総裁の任期を伸ばしたくせに、こんな有事に総裁選なんぞやっている場合かよ与野党の枠を越えて知恵を出し合ってこの難局を乗り越えないといかんだろ、みたいなことはけっして言わない人たちによる、この国の総理大臣を決める選挙です。

党員でも党友でもないワタシはながめているしかなく、ワタシの言葉なんぞはどこにも届かないのだけれど、届かないのを承知で、一年だけ総裁の任期を伸ばして緊急事態の対応と収拾にあたれよ、と言いたくなりました。

口が悪いのは、暑くてたまらないから。これだけ暑いと機嫌も悪くなりますよ、そりゃ。ベースのペグも折れるし。

2021.8.23
無償トレードで巨人に移籍して、よかったねまだ野球を続けられるね、と思っていたらいきなり一軍登録されてホームランを打って、いやいやちょっと待てそれは違うやろ、と中田翔の問題について言いたくなる今日この頃。けっして兵庫県在住で阪神タイガース寄りの人間の、個人的感情をたっぷりふくんだ意見ではないですよ、ええ。

せめて今シーズンぐらいは謹慎からの自主練習に留めて、来年から試合に復帰、交流戦で札幌に行ったときにあらためて日ハムファンに頭をさげて。ぐらいのほうがよかったんちゃうの。それが筋というもんちゃうの。

暴行問題からのクビ、引退ってことになると、一部の体育会系社会に根づいている異様な形の先輩やら後輩の関係、いびつな上下関係とかさ、元凶となったそういう古いもんに全部をフタをされかねないよな、それはあかんやんと思っていたけど、こんな曖昧に片づけて試合にまで復帰させるとは予想していなかったよ。

ま、体育会系的なもんは門外漢なのでこのへんで。

門外漢ついでに運動についてもうひとつ。東京パラリンピック、学校連携観戦はおこなわれるようで。正気かよ、と思いました。現場からは以上です。

ついでにもうひとつ。フジロックは観客を入れて開催。イナズマロックフェスは中止。

なんかうまくやれへんものかな、とか思ったりします。ワクチンパスポートを持っていれば参加できるとか、そのうえで感染対策を徹底するとかさ。感染対策っていうたって限界はあるし、ああいう場所では楽しくてはっちゃけるやろうし、パンデミックという日常も見事に忘れちゃうやろうし、そうやって忘れさせてくれる力が音楽の魅力だったりもするから、いろいろと難しいのだけどね。

でもフジロックの開催がけっこう強行な感じがして、もしかしてオリンピックをやったんやから俺らもやってええやろぐらいの気持ちでやっちゃってない? だとしたらそれは危険じゃない? などと勝手に妄想してしまいました。

2021.8.19
8月19日はバイクの日だそうで。

二十代前半はゼファーに乗り、二十代後半から三十代の半ばまでだったかな、そのあたりまでホンダのV-Twinマグナを愛用していました。昔は移動の主力が二輪だったので、夏で暑かろうが、冬で寒かろうが、とにかく二輪を駆使したものです。

夏はニーグリップをしているだけで熱いし、信号でとまったらあきれかえるほどの暑気だし、かといって走りだしたら爽快かというとそんなことはなく風は生暖かいだけだし。特にゼファーは空冷のせいかエンジンが熱くて熱くて、ちょっとやそっとの風じゃこれっぽっちも冷えやしねえ。

冬は冬で、寒さに耐えるために着込めるだけ着込むという原始的な手段を模索し続け、最終的にはスポーツ用品店で安く売っていたスキーウェア上下に落ちつくという、ある種の力技。傍目にもおおげさな重装備っぷり。でも手袋にいたるまでスキー用にしたら、これがなかなかいい防寒効果で。さすがに雪のときは無理だったけど。

昔、芝居をしているときの話。

稽古の帰りで大雪になり、ゼファーで何とか自宅まで帰ろうとするも国道176号線(大阪方面)茨木インターチェンジ手前のゆるやかな登り坂でタイヤがずるずるすべって進めなくなり、これは無理だわと必死に方向を戻し、高槻の芝居仲間の家まで戻るべくそれはもう事故を起こさないよう精神を研ぎ澄ませて運転を続けて、あとちょっとだ、という地点、最後の交差点の赤信号で油断して不用意にブレーキをぐっとかけてしまって制御不能からの転倒。減速していたから怪我はなかったけど、あれはくやしかった。仲間の家のすぐ下の交差点で、本当にあとちょっとやったんやもの。

他にも後ろに別の仲間を乗せて大阪を北から南へ何度も往復するとか、ゼファーにはいろいろな記憶がつまっているな、とか思いだした今日この頃。

いつか再びバイクに手を出しちゃったりして、ゆったりライディングなどを。とは思いつつも、さすがに移動の主力にはならないだろうし、もし新車で買っても一万キロも走らんやろうな。

そう考えると今さらバイクってのもねえ、とか考えてしまうのだけど、万が一、小説の売れ行きが大爆発したりとかして、思いがけない金が入ってきたりしたら、勢いだけで買ってしまうかもしれない程度にはまだ熱が残っています。

2021.8.12
日本ハムファイターズ、中田翔選手が後輩選手に暴力をふるって出場停止。だそうで。チームのファンでもなければ中田翔のファンでもないのだけれど、ちょっと言いたいのです。

暴力行為は許されない。これは大前提。でも、被害者は選手生命を脅かすような怪我を負っているわけではないし、当日も試合に出ていたらしいし、報道によると当人も大事にはしたくないとか。

取り返しのつくあやまちなのだから、謝罪と謹慎で許してはもらえませんかね。

もう一度言うけど、これはまだ取り返しがつくあやまちなんやで。人間は完璧じゃなく、ミスぐらいするし、場合によっては他人を傷つけてしまうことだってあるやん。やってもうたって反省した経験、大人やったら一度や二度や三度くらいはあるやん。人間ってそんなもんやん。それなのに人間の不完全さや未熟さを批判して否定して、けっして許されないと厳罰化へ進んでしまうと、最終的にはたった一度の失敗すら容認できない窮屈な社会になってしまうやん。

成功することより失敗しないことにばかり気を遣うような生きかたが推奨される社会。そんな息苦しいの、俺はごめんだわ。少なくとも中田翔の野球人生を終わらせるほど深刻な罪ではない、と現在の報道からは思うのです。もちろん後輩をぶん殴ったのはあかんけど。

こんなご時世だからこそ寛容さを持っていたいね。他者への寛容が、自身への赦しにもきっとつながるやろうから。自らへの戒めもこめて、そんなことを言うておきたかったのです。

2021.8.10
ワクチン接種の二回目を今週の日曜に終えました。

二回目の副反応は一回目よりきつく出ると聞いていて、一回目はまあ大丈夫やろと軽く考えていたらそこそこの打撃を食らった身としては、かかってこいと身構えて望んだしだい。

そして昨日。結果は、熱は前回よりあがった。面倒だったから計っていないけど体感として。前回にはなかった関節痛と全身の倦怠感があり、それがなかなかひどかったので。頭痛もそこそこ。これは前回とほぼ同じくらいかな。左腕の痛みは、本日火曜日になってちょっとおさまったかなという具合。

そんなこんなで無事に終えました。二日が経過して無事にすごしています。残念ながら5Gには接続できませんでした。

クーリエジャポン8・9月号、ダニエル・カーネマンのインタビューを読む。以下抜粋。

「私たちはこの本で「システム・ノイズ」を主要テーマとして取り上げました。システム・ノイズとは個人の内面で起こる現象ではなく、均一な判断を下すことが前提とされる組織やシステムの中で起こるものです。個人の主観やバイアスの問題とはまったく異なります」

とのこと。

人工知能の機械学習は、データを入力するヒトの偏見が介在してしまい、結果として人工知能の決断にも偏見が現れるという警鐘が鳴らされている昨今。ダニエル・カーネマンがシステム・ノイズというものを、どのように言語化しているのかが気になる。新著の『ノイズ:人はなぜ判断を誤るのか』に俄然興味が沸いてきた。日本語訳の発売はいつになるのかわからないけれど、ぜひ読みたい。

組織や集団の帰属意識がカルト的側面を持ち、それの暴走を許しかねないシステムが現代社会にはある。みたいなことを裏テーマとして入れて、誰にもふれてもらえなかったにもかかわらず、やっぱり集団やらシステムといった概念の制度化と暴走については今後も書きたいのです。

2021.8.5
オリンピックだったり他の世界大会における、メダルを噛むとか齧るとかくわえるなどという習慣ないし悪癖はいいかげんやめませんかね?と言わずにいられない今日この頃。

いや、他人の金メダルを噛んだおっさんの責任を転嫁したいわけじゃないよ。あのおっさんの行為は、ただただ気持ち悪いもの。倫理とか道義とか、そういうことじゃなく、とにかく気持ち悪いもの。噛むんなら5円チョコでも噛めよ、と。それとは別に、メダルを噛むのはこういうご時世でもあるし、やめたほうがよくないですかねと、気持ち悪いおっさんにだけはなりたくない私などは思うわけです。

そんなこんなのオリンピックですが、観戦が出遅れた私はようやく今週サッカーにて堪能いたしました。とにかく「アセンシオ!」の一言につきる。延長戦後半という時間帯で、後ろ向きでボールをもらってから即座に振り向いて、ディフェンスの寄せが甘くシュートコースが空いているという一瞬の判断からの、あの精度のシュート。あれは無理っす。すっごい。

そのアセンシオ、シュートを決めたあとに喜びのあまりのあまりにユニフォームを脱いでしまいイエローカードをもらったわけですが、あの時間だからこれが決勝点になるだろうし、気をつけていれば二枚目をもらうのもまずないだろうし、次は決勝戦だから累積も関係あれへんし、という判断のもとで服を脱いで喜びを爆発させたのだとすれば、意外と冷静やん、なんてことも思ったり。ギタリストがライブの最後に感情がたかぶってギターを壊すけど、壊すときは安いギターに持ち替えます、みたいなね。ともあれ、日本代表は負けたけど、いいもんを見させていただきやした。

明日は三位決定戦。用事が重なっているので観戦できるかどうかはわからないけれど、時間が許すかぎり見届けたいです。

2021.7.29
あまり政治がらみの話は書きたくないのだけれど(そういうのは物語の中に、ありったけの皮肉をまぶして流しこんでおきたいのですが)、今回はちょっとだけ。

時事通信より。枝野立民代表、五輪中止求めず「かえって混乱」

前回の熱に浮かされたような政権交代と違う、本気で政権交代可能な、現与党を脅かすだけの影響力を持った政党になるべく現実路線にかじを切った。と受け取ってもいいのかな。たまたまなのかな。ちょっとやる気がなくなっているだけなのかな。暑いからね。

どうであれ、この国の政治や経済や行政をよくするには野党が力を持つ以外にないうえ、有権者は選択肢がきわめてかぎられているのだから、ふんばってほしいなあ。プロ野党になりはてて、のんべんだらり、なんてことにだけはなってほしくないなあ。はい、すみません。権力は基本的にちゃかすものという姿勢で物語を書いているゆえ、政治の話になると言い草が雑になります。

それはさておき本題はこっち。

ソーシャルメディアはけっして世界そのものじゃない。世論でもない。ツイッターはそんなソーシャルメディアのひとつにすぎない。現実と虚構が入り乱れる、かつての2ちゃんねるのような良識も悪意も(一方的な正義も)そっくりそのまま垂れ流す、使う人間によって毒にも薬にもなる。そんな場所でしかない。

そんなもんのせいで人生を無駄にすんなよ。

ソーシャルメディアに書きこんだりつぶやいたりした言葉は、自分の口から吐いたそれと同じ重みを持つ。けっしてインターネットという虚構だけで済むものじゃない。匿名掲示板みたいに、ああはいはいクズが、と流してくれるわけでもない。うまく使えばおもしろいんだから、負の感情ばかりを吐きだすのはやめようぜ。もったいないって。

なぜこんなことを書くのかというと、大坂なおみについて差別的なツイートをした編集者が契約を解除されたという報道を眼にしたから。

この編集者は業務委託されていたとかで、おそらく面識はないだろうし、アホがアホなことをしでかしたというだけの、明日になったら忘れるような話なんやけどさ、言葉で飯を食っているのならその言葉の使いかたを間違えるなよ、と声を大にして言いたくなってしまったわけです。それだけです。

2021.7.28
ニューズウィーク8月3日号にリ・ナオルさんが寄稿した記事が興味深い。

1988年ソウル五輪は韓国で、軍事クーデターで権力を掌握した政権の唯一の肯定的な功績と言われているとか。開幕すると当時高校生だったリさんも観戦に動員されたとか。本当は嫌だったが、そんなことを言える雰囲気ではなかった、など。

それと比較して、今回の東京五輪は「つまらない」「迷惑だ」とはっきり言えて、それがメディアにも流れる。一方で競技を楽しむ人たちもいて、その結果に一喜一憂している。国威発揚型ではない五輪の形。それはそれでいいではないか、という論調の記事。

自分と違う考えを持つ他人の存在を容認する。相いれない思想を持つ人間も許容する。それが民主主義を成立させる大前提で、もしかしたらその相手は他者に寛容ではなく、自分が正しいと信じきっていて、自分が信じる正義以外を認めず、自分の正義と照らして容認できないもの、すなわち悪に対しては攻撃してくるかもしれない。その攻撃の対象は自分かもしれない。それでもなお、そういう人間をも受け入れて社会を構築する。それが民主主義社会なのだよね。

で、困ったことに、それがまあ困難を伴うわけでして。

いろいろな意見があっていい。五輪の開催に賛成でも反対でも。でも、絶対に開催すべきだという意見を持っているからといって反対意見を持つ他者の人格を否定するのは違う。開催に反対だからという考えのもと、開催に賛成している人間を攻撃するのも違う。そういうの、やめようぜ。オイラみたいながさつな人間は、とりあえず歩み寄ろうやなどと適当なことを言いつつ酒を呑んでしまうぐらいしかできないけれど。そして今は酒を断っているけれど。

言うはやすし、おこなうはなんとやらで、自分と違う他者を受け入れるには普段からの心構えと努力が必要。なので、できるかぎりでいいから意識しておかなあかんな、ということで自らへの戒めとして言葉にしてみました。

あ、でも一部のワクチン反対派には怒っている。オレ、ちょっと怒っている。だってワクチンを打ったのに5Gに接続せえへんやないか。どういうことや、責任者でてこい(期待していた)。

2021.7.23
本日午後九時すぎ。疲れて、うつらうつらとしてしまい、いかんここで寝てしまったら中途半端な睡眠になり夜が寝つけなくなる、せっかく生活を朝方に戻そうとしているのに、と必死になって身体を起こし、そのついでにテレビをつけてオリンピックの開会式をながめていたら、各国選手の入場を最後まで見てしまいまして。

いや、いろいろ思ったさ。一部の国の旗手が強そうとか、格闘家かよとか、油でテカテカやんとか(いずれも同一人物、二名)。

あと、入場にゲーム音楽を使うのなら、ドラクエとFFはまあ使うやろうとしても、FFだったら『ザナルカントにて』とかもどうですか、とか。どうせゲーム音楽を使うのならマッピーとか(これは日米共同開発やったっけ?)、ドラゴンスプリットとか悪魔城ドラキュラとかダブルドラゴンとかクインティとか(いずれもただ俺が好きなだけ)。それと魔界村とかさ。でも魔界村なら大魔界村がいい。あと、ファイナルファイトとかストリートファイター2とか。スト2が入るなら餓狼伝説も入れにゃいかんやろ。餓狼ならスペシャルでしょ、とかね。

ニーア・オートマタの曲を使うのなら、ダークソウル3もいけるんちゃうの。似たような曲調ということでAZEL-パンツァードラグーンRPGの主題歌とかもいけそうやん。

いっそのことファミコンとかマーク3とかメガドライブでゲーム化されましたからというのを言い訳にして北斗の拳の主題歌を押しこんでしまうのはどないや。セガサターンでゲーム化されましたからということで『残酷な天使のテーゼ』もどや。同じセガサターンでゲーム化されているから魔法騎士レイアースより『ゆずれない願い』も(そこそこ熟練の田村直美ファン)むりやり入れてまえ。などなど寝そうになりつつ考えたりしちゃったりして。

それはさておいて、選手にとっては一生に一度かもしれない大舞台で、それはもうみなさんがとても輝いていて、マスクごしでもちゃんといい顔をしているのがわかって、気持ちがたかぶっているのも見て取れて、その光景を前にして痛切に思ったのです。

マスクが必要ない元の日常に一刻も早く戻ってほしいなあ、と。

いろいろな意味で歴史に残ってしまうであろう今回の東京オリンピック・パラリンピック。ここまで来たのだから、重大な事故もなく、安全に平和につつがなく、そして気持ちよく楽しく終えてほしいものです。それを願っています。

原稿がばっちり遅れているのであまり観戦はできないけれど、オイラもできるかぎり楽しみます。

2021.7.20
一回目のワクチン接種が終わりました。

打ったのは日曜。腕が筋肉痛のようになるとか熱が出るなどの副反応については接種会場で説明が張りだされていたので心だけは準備しておいたのだけど、なんというか、すべてが中途半端に反応してしまって。

熱はずっと36.9という微熱にもなりきれていない微熱。でも身体はだるい。腕は筋肉痛のような痛みであげられない。あと、頭痛がそこそこきつい。動けないほどではないけど、原稿に取りかかったり資料を読むにはしんどい、という程度に重い。念のために月曜は何も予定を入れていなかったのだけれど、一日中ぐったり。ひさしぶりにバファリンにも頼りました。今日になってようやく頭痛も少しおさまり、腕の痛みもなくなってきたかなというところ。

噂によると二回目のほうが副反応がひどくなる場合もあるらしいので、次回も接種日と翌日は完全にぐったりする予定で挑みます。

しかし高齢者接種からずっと続いているという経験値もあってか、接種会場のオペレーションが、それはもう迅速かつ的確で。すばらしかったです。医療従事者の皆様や接種会場の受けつけをされているかた、常に待合室の椅子を消毒されているかたなど、すべての関係者に本当に感謝です。

ということで今日から日常へ。原稿にも取りかかります。次の長編のネタとか、封じこめたいメッセージとか憎しみとかねたみとか鬱屈が、それはそれはあふれんばかりに蓄積されておりまして、気持ちばかりが急いております。

2021.7.12
今日もぶつ切りで、何点か。

・読書メーター

やめておいたほうがいいのはわかっているのだけれど、やはりどんなふうに評価されてどんなふうにけなされているのか興味はあるわけで、ひさしぶりに確認。ワーカーの評価が予想外にあがっていて驚く。文庫化、どうですか文庫化。

・上記に関連して

『精密と凶暴』に、「挫折」とだけ書きやがったそこのあなた。次の長編では全部読ませたうえで、おもしろいって言わせたるからな!(だから次も読んでねっ)

ちなみに私は、読みたい人だけが、作品の価値をわかってくれる人だけが読んでくれればそれでいい、などとは絶対に言いません。だって必死になって書くんやもの。どうせなら、ありとあらゆる人々に読んでもらいたいやん。そのうえで楽しんでもらいたいやん。だから現時点で私のことが嫌いなそこのあなたも、次はきっと楽しめるはずやから、読んでね。できれば買ってね。

・現在の作業状況

11年ほど前に応募用に書いた長編の直しをやっているところ。不完全燃焼だったのでずっと気になっていたし、思い入れのある作品でもあるから、思い立ったときにやっておこうかなと。ただし商業出版にいたるかは不明。そもそも、これは商業ベースに乗せられんやろと勝手に考えて売りこまなかったものだからね。

直しは予定より遅れていてようやく半分。八月の第一週には終わらせたい。そのうえで次の長編へ。

こっちは勢いで一気に書ききる。そのぐらいじゃないとおもしろくならない題材。どんどん案が頭の中でふくらんでいるので、うまく形にすればすぐに終わるし、考えすぎたら泥沼にはまるかもしれない。プロットもふくめて、九月の上旬までにある程度まで仕込んで、売りこみの予定。

・Netflixにて『テネット』を視聴

逆回しの映像に放りこまれてしまったら、いったいどうなるのか。そんな映画大好きっ子の妄想を実現したような映画。その妄想に説得力をもたせるための理屈、というかほらの吹きかたが、まあ好み。おもしろかった。これは時間があるときにもう一回観て、書きたいかな。

・そのNetflixで気になったこと

以前から気になっていたのが『オルタード・カーボン』というドラマ。あまり余裕はないけれど、ちょっとだけ試してみるかと観始めたらばっちり2シーズンを一気に観てしまった(上記の作業遅れの一因)。ど直球のSFドラマ。よい。こういうの、とにかく好み。シーズン1の街に強力わかもとの看板が欲しかったとか、場合によっては赤ひげ薬局とかで代用してくれてもいいから、とかいろいろなことを言いたくなる。のだけれど、気になった点がひとつ。

これ、無修正やで。

日本では許されない映像がふくまれているんやけど、大丈夫なん? たぶんあかんと思うのよ。ということをツイッターでつぶやいて日本の運営の眼にとまっちゃって配信停止になってしまうのは困る。だからこの場でこっそり言うておきます。だから運営の近くにいる人。耳元でささやいてあげて。あれ、まずいかもよって。そのうえでひそかに修整して。そんなことを祈っておきます。

・おまけ

英気を養うため、明日から少し旅に出ます。インターネットからもいくらか距離を置きます。では。

2021.7.8
三点ほど、ひとりごとのぶつ切りを。

・東京オリンピック・パラリンピックの開催

というか、やるの? 本当に? こんな状況で? できるの? もいっぺん訊くけど、本当に?

なんかもうこうなるとさ、前代未聞・緊急事態宣言下のオリンピック・パラリンピックを最後まで見届けてやろうやないかという野次馬根性が身体の奥底からみなぎってきたよ。こんなビッグウェーブには乗りたくないけど、見る阿呆ぐらいにはなってやろうやないかい、と。そんなふざけたことを言えるのは、きっとオイラが東京から離れたところに住んでいるから。東京近郊在住のかたはくれぐれもお気をつけていただき、ご自身とご家族とご友人を守る行動に専念していただければ。

ただし、今回のオリンピック・パラリンピックが重大な事態に陥ることなく成功したとして、二十年後とかに「一部世論の反対もあったが、ときの内閣の英断によって奇跡の五輪は成功したのだ」みたいな解釈になっていたら、「アホ抜かすな、世論の大半が反対しとったし、成功と失敗の境界線はぎりぎりで、うまくいったのは現場の人間の努力と、最終的には運が良かっただけじゃボケ」と吠えまくったる。

せめて先月中に無観客と決めていれば、もうちょっとやりようはあっただろうにね。WWE方式(客席液晶モニターを敷きつめて観客の顔を映すあれ)とかも、できただろうに。

・WWEといえばイケメン二郎

NXTのブレイクアウトトーナメントに出場ということで、いよいよ本格的な世界進出。入場曲は? ふくやまなの? まさはるなの? ハローなの? アメリカでも一曲まるごと入場に使っちゃうの? だとしたら向こうの口の悪い解説者に「イナフッ!」とか言われてほしい。などという願望を抱いていたが、どうやらよくわからない女性ヴォーカルの曲が使われているということで残念なり。でも、情報によるとこの女性ヴォーカル、日本語で歌っているらしいが、ところどころ何を言っているのか聞き取れないそうで。めっちゃ気になる。

・娯楽の鑑賞に「べき」をつけてくれるな

読むべき。観るべき。聴くべき。そういう言いかたは心の底から嫌いだ。娯楽やで。楽しむためのもんなんやで。そこに義務が付随してどないすんのじゃ。おもろいから読むんや。楽しいから観るんや。気持ちいいから、格好いいから聴くんや。そのすべての行為には『べき』じゃなく、『したい』をつけてほしい。読みたい。観たい。聴きたい。誰かに薦めるときも「この本は読むべき」ではなく、「この本、めっちゃおもしろかった」という言葉をつけてほしい。これは自らへの戒めと、決意をこめて。

「読みたい」と言ってもらえるような小説を、読んだあとは「おもしろかった」と言ってもらえるような小説をこれからも書きます。せいいっぱい。

・ついでに一言

『ひとりごとのぶつ切り』って、居酒屋のお通しみたいやな。たこぶつ、的な。そろそろ外で呑みたいなあ。

2021.7.5
予備のWindows10マシン、導入完了。

性能面では2015EarlyのMac Book Proよりはるかによくて、けっこう快適。これでMacが吹っ飛んでも対応できる!のだけれど、こういうときにかぎって本当にMacが吹っ飛んだりして余計な出費になってしまったりするので、用心深く、間違ってもコーヒーをキーボードにがっしゃんとやらないようにせなね。Macでの作業環境をWindowsで再現できるわけではなく、あくまでハードウェアの予備というだけなので。

とりあえず週末でWindowsマシンの設定とか、せっかくだからと購入したオーディオインターフェイスの設定とか、おまけでついてきた音楽関連のプラグインの導入とか、さらにはせっかく性能のいい機械になるのだから試してみるかと購入しておいたギターアンプシミュレーターAmplitube5の導入とか設定とか音作りとか音作りとか、さらには音作りなどに時間を割いて、ひととおりは終了。

しかしながら懸案事項だった、以前使っていて数年ほど電源も入れていなかったWindowsマシンからのメールについては、

見事にサルベージ、失敗。

ハードドライブからのWindows起動も不可。ハードドライブには接続できるので中身を確認してメールのデータを拾おうにもメールソフトの問題でどうやら難しい。やらかした。いや、やらかした。

ということで、神奈川県厚木市にて一年間オイラと毎日のように遊び狂っていたそこのあなた。このページを見ていたら、もう一度メールをください。見てへんやろなあ。メールをもらってから10年近く経ってしもたし。

自分の雑な性格を反省しつつ、また時間を見つけて方法を模索してみますです。

2021.6.30
昨日に続き、MacOSのアップグレードについて。備忘録もかねて。

Big Surをクリーンインストールして、さて次はどうするかと。MacにはTime Machineというとても便利なバックアップ機能があり、こいつを使った移行アシスタントであれば元の環境をあっというまに復元できる。のですが、膨大になった『その他』データを思うと、アプリなりデータなり、不要なものも多数あると思うのです。せっかくOSを新しくするのに、余計なものも一緒に移行するのもなんだかなと考え、おそろしく時間はかかるだろうけれど一つずつ必要なソフトウェアを選んでインストールしていくかと。

最初こそ『かわせみ3』で、どうやっても英字にするとMacに元々入っている文字入力に切り替わってしまう問題でつまずいたのですが、『かわせみ3』以外の文字入力を削除して対処し、以後は順調に進んでいました。

メールの受信送信の設定。仕事用のメールソフトのダウンロードとそれぞれの設定。egwordUniversal2のインストール。ウェブサイトの作成に使っているVisual Studio Codeのダウンロードとインストール。ウェブサイトのアップロードに使っているFileZillaのインストールと接続のための設定。ミュージックも外付けのハードディスクから読み込んで新たにライブラリを構築し、予備のブラウザとしてFirefoxも用意。オーディオインターフェイスのドライバもダウンロードして接続。

そうそう、情報の共有として記載しておきましょう。Big SurでもUA-25EXというオーディオインターフェイスは動きました。アドバンスモードはドライバがないので無理かもしれませんが、本体裏のアドバンスモードのスイッチを切れば(おそらく16bit・44.1kHzで)何事もなく動きますし、Macの『設定』から出力・入力のデバイスとして選択できました。環境によっては無理かもしれませんので、一応、自己責任にてお使いいただければ。ちなみにUR242はドライバをダウンロードしないと認識もしてくれませんでした。

そんなこんなで順調に作業は進んでいたのですが、予想しないところでひっかかりました。Cubaseです。正確にはスタインバーグのeLincenser Control Centerです。

スタインバーグのeLicenserにはUSBトングルを使って認証する、その名もUSB-eLicencerと、ソフトウェアで認証するSoft-eLicenserがあります。USBを使うのは高額なソフト、Soft-eLicenserは比較的安いソフト、と勝手に解釈しています。だいぶ昔にCubase Studio4を使っていて、こいつがUSBトングルの認証だったから私は両方を使っていたのですが、コントロールセンターで認識されるのはUSBのみで、Soft-eLicenserは項目そのものが出てこないのです。

最近は金がないのでCubase Elementsという安いものを使っており、これはUSBではないので、ソフトの認証ができないとどうにもならない。スタインバーグのウェブサイトにログインしてみると、Cubase Elementsのアクティベーションコードは表示されているし、再発行もできる。でもSoft-eLicenserには出てこない。そもそもSoft-eLicenserがないのだもの。しかもコントロールセンターからはログインすらできない。そこで気づくのです。

もしかしてこれ、アカウントじゃなくてコンピュータ本体と紐つけてる?

Cubaseの購入で、ちょいとややこしいこともしていました。くりかえしますが金がないので(小説、売れてよ!)、しばらくはCubase AIというオーディオインターフェイスに付属していたものを使っていたのですが、機能面でどうにもならないぐらい何もできないので、AIからElementsへのアップグレード版を購入していたのです。で、スタインバーグのウェブサイトにログインしてみると、ダウンロード可の項目にはCubase AIだけが表示されている。もしかしてまずはAIをダウンロードしてインストールして、そのうえでElementsをダウンロードしてインストールして認証しないといけない? ややこしくない? 面倒くさくない? IK Multimediaみたいにアプリからログインして認証、インストール、オーソライズ、アンオーソライズまでさせてくれへん? そっちのほうがわかりやすいやん。スタインバーグのこれ、ものすごくわかりにくいやん。

数日たった今、冷静になってみるともうちょっとやりようはあったのかもしれません。ただ、疲れていたのです。緊張の糸が切れたのです。これはやってられんと。

ということで作業の最終段階に来てOSをクリーンにて再インストールしました。そのうえで移行アシスタントにて以前の環境をそっくりそのまま復元。時間ばかりかかって、なんのこっちゃという話です。

懸案だった『その他』データも50ギガバイトまで抑えられたので(再構築していればもっと削れたかもしれないけれど)、まあよしとしておきましょう。OSのアップグレードは大変です。オイラみたいな致命的に我慢が足りない人間には特に。

スタインバーグの認証関連についはもうちょっと調べる必要があり、おそらくもっと簡単に解決できるはずなので、ここに書いてあることは反面教師にしていただければ。

ともあれ、あとはサブマシンとして購入した新しいWindows機の到着を待つだけ。しかし、しつこく言いますが金がないので(もうちょっとだけでいいから、売れて!)OSなしメモリも最小限のBTO。到着後にはメモリの増設とDVDドライブの組み込み、Windowsのインストールを経て、一太郎などの必要なソフトウェアのインストールという流れになるのです。

また週末がつぶれそうや。

2021.6.29
少し前に新しいMacOSが発表になりまして。

MacOS Montereyだそうです。というわけで、ようやく私は現行のMacOS Big Surにアップグレードしようかなと思いいたり、先週末に勢いだけで実行に移したわけですが、まあいろいろと問題と失敗が噴出しまして。

Macユーザーなら誰もがぶつかる問題がひとつあります。そう、『その他』という名前がついたデータです。

システムでもアプリでも書類でも音楽でもない、謎めいた『その他』なるもの。これがMacには存在します。OSで読めないPDFやら何やらの集まりらしいのですが、アップグレードをするためにストレージを調べてみたところ、私のMac上では70ギガバイトを超えておりまして。『その他』だけで。

私のMacBookProは2015Earlyでして、内蔵ストレージは128ギガバイトしかありません。そのうちの70ギガバイトです。それとは別にシステムで18ギガバイトだかを消費していたうえ、上書きアップグレードには30ギガバイトほど必要だからでけへんで、と警告をいただく始末。

しょうがないから一度ストレージを全部消去して、MacOS CatalinaをクリーンインストールしてからBigのSurに格上げさせよう。でもその前に文字入力で使っている『かわせみ2』はBig Surに対応していないので3にあげてからじゃないと。ということはまず『かわせみ』をアップグレードしてからOSのクリーンインストール、そのあとにBigのSurへレベルアップ、悪魔合体や。しかしどのくらい時間がかかるんやろ、もしかしたら一日がかりか。などと余計なことをいろいろを考えながら作業を始めたせいで初っぱなの『かわせみ』アップグレードで大失敗。

物書堂のページに行き、『かわせみ』のページに飛び、ついで購入ページへ。ここまではよかったのですが、購入ページのいちばん上にある『優待アップグレード』の箇所をばっちり見逃して、そのままページを下降。すると製品一覧があり、個数を入力するフォームがあり、ここに入力すればいいんやな、いや、その下に個人情報うんぬんのチェック欄があるからまずはここにチェックを入れて、その上に¥2,200のやつがあるけどこれやったかな、たしか以前調べたら優待アップグレードは¥2,200と書いていたし。でもかわせみのアクティベートコードみたいなのはまだ入力してへんけどいいんかな、もしかしたらページに入った段階で『かわせみ』ユーザーであると読んでくれてるんかな。とか自分に都合よく考えつつ、ぽちっとな。

はい、私が購入したのは『かわせみ2』でした。

購入後に届いたメールを見てようやく気づき、やってもた!となった次第。

すぐに物書堂へ、恥をしのんでメール。こっちの間違いなのですが、返金とかしていただけませんか、と。ただ、その返事を待っている間に作業が滞るのは困るので、別途『かわせみ3』の優待アップグレードを購入し、OSのインストールへ。その後もちょっと厄介な問題があったのですが、長くなるのでそれはまた次回。

で、かわせみの返金については週明けの月曜の午前中にメールをいただき、返金処理しといたったで(超意訳)とのお返事。本当にありがとうございます助かりました。

だからというわけではないですが、今回は物書堂のソフトウェアについても、せっかくなのでふれておきましょう。

私がMac環境に移行したのは、当時サブで使っていたノートパソコンでWindows10へのアップグレードを試した結果、完璧に失敗して一台まるごと吹っ飛んだからなのですが、当初は暫定的な移行のつもりだったのに、いつしかMacから離れられなくなってしまった大きな理由の一つが物書堂のegword Universalです。

このワープロソフト、めちゃめちゃ使いやすいの!

日本語の縦書きで文章を書くのなら、少なくとも私が使ってきた中ではこれがいちばん。ポイントは、とにかく軽い。『精密と凶暴』は単行本で500ページですが、第一項では600ページもありまして(書きすぎ)、その600ページ分のファイルをひらいてもいじっても、さらには本文と別にプロットデータとか資料を書き写したデータ(これがまた膨大なのよ)とか、私は文章避難と読んでいるのですが、ここは大幅に書き直さないと、という箇所の元文章を逃がすデータ(これが最終的には本編の三倍ぐらいになる)を展開しても、まったく問題なし。別のページへの移行もスクロールも、最初にすべてのページを読みこんでしまえばあとはとにかく軽快。出版業界も印刷業界もこれを標準にして、拡張子egwudデータでやり取りさせてくれよと心からお願いしたくなるほど使い勝手がよいのです。

とはいえ世の中の仕組みがそうなってしまっている以上、完全にMacだけでは作業環境が完結できず、Windowsを併用しなくてはならないのも事実。現在使っているMacBookProも古くなり(すでにバッテリーがふくらんで一回交換している)、さりとてMacを新しくしようにも特に音楽関連のハードウェアがM1にネイティブ対応していないのでまだ早いなと躊躇してしまう現状。しょうがないから新しいWIndowsマシンを導入するか、という気持ちになっているのですが、そこで今回のひとりごとの主題というかお願いをひとつ。

Windows11を機に、『egwordUniversal2』と『かわせみ3』のWindows版を出してくれませんか。

これらのソフトウェアのWindows版があれば、MacとWindowsをたやすく行き来できるようになって、ハードウェアで問題が起こってもどうにかなるし、どっちかのOSが絶望的なしでかしをしたとしてもうまく逃げられるのです。とても作業がしやすくなるのです。

返金しといたでメール(超意訳)に、そんな願望を返信するのは非常識なので、届け!という思いをこめて、ひっそりと書いてみました。

2021.6.21
子供のころ、一年だけ神奈川県に住んでおりまして。

どういう経緯で知り合い、どういう流れで仲良くなったのかはまるで思いだせないのだけれど、とても仲の良い友人がいまして、その一年間はほぼ毎日のように遊んでいたと記憶しています。

住んでいたのがいくぶん閉ざされた里で、町内の子供の数もかぎられていて、ゆえに小学校六年生からなる原始的な縦社会のようなものが形成されている中にあって、同じ年齢の子供ということで嬉しくなり、自然と多くの時間を共有するようになったのではないかと推察しています。だって閉鎖的な里社会というか頑強に縦に連なるあの感じ、実は苦手だったもの。あの苦手意識が現在の、このままならない性格の自分につながっているのかもね。

必然なのか偶然なのかはさておき、その友人とは本当にいつも一緒に遊んでいた記憶ばかりで(あとは私の雑な性格ゆえに怒らせた記憶もあるな)、大人になった今の物差しで測ると一瞬にすぎない一年が、とても濃密だったなと思い返すたびに感じるのです。

とはいえ一年で引っ越してしまい、直後は手紙のやり取りなどをしていたものの子供ですからいつしか疎遠になり、そのまま存在こそ思いだすものの連絡を取ることもなく時間だけがすぎていき、私は挫折して挫折して挫折しながら生きていたわけです。

そんなおり、2012年に『ワーカー』で日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を取って、再び小説を刊行させてもらえるようになりまして、そうしたら受賞作をきっかけにその友人がわざわざメールを送ってきてくれたのです。違っていたらすみませんという文言で始まるそのメールに「うおぅ」と声をあげたのは誇張じゃなく事実。まさかこういう形での再会があるとは、本名で小説を書いていてよかった。

と、ここまではきれいな話なのですが。

メールにて、再び会おうと約束していたので、次作を書きあげたら東京まで会いに行こう。と考えていたのに、その次作『ブレイン・ドレイン』は思いがけず刊行までに三年もかかってしまい、刊行直後に週刊文春でインタビューという話をいただき、それに合わせて東京で打ちあげをかねての会合ということになり、もう何がなにやらという感じであわただしく東京出張を終えてしまい、しまった東京に出たんやから会っておけば、と気づいたのは関西に戻ってから。

しょうがない、次の本を出したときにはちゃんと連絡を取ろうと決意を新たにしたものの、その次ってやつが『精密と凶暴』でして。はい、今度はよりにもよって五年と半年もかかってしまいまして。しかも今回は東京に呼ばれるイベントなど現時点で何もなく、個人的に行こうにもこんな状況だし、オリンピックが始まってしまったらなおのこと行きにくくなるし、機会の逃しっぷりには我ながらただあきれるばかり。

くわえて『ブレイン・ドレイン』の刊行後に武器をWindowsからMacに変えたせいで、友人からもらったメールは古いWindows7にインストールされたメールソフトの中に埋もれたまま。三年くらいは電源も入れてへんがな。

こういうところで人と疎遠になってしまうんやろなあ。

次に東京へ行くときは、何とかして会おうかなと画策しています。しかし今年再会したとして、三十五年ぶりやで。一緒にすごしたのは小学校三年生から四年生の一年間で、今は四十代なかばのおっさんやで。どんな感じになるのか想像もできんな。できんが、こういうのはなかなか経験できないから、なんか楽しそう。

とりあえずは古いWindowsマシンに灯をともしてメールを救いだすところから始めます。

2021.6.15
ftpクライアントソフトの試行をかねて、ぼそっと。

文庫版『ブレイン・ドレイン』は明日6/16に発売します。北上次郎さんの解説が、もうとにかくすばらしくてありがたくて感激なのです。

とにかくとりあえず手に取ってみてください。

2021.6.14
サブスクリプションにうまく乗っかれない。

すべての定額制サービスがだめというわけではなく、音楽関連のサブスクリプションがどうにも体になじまない。音楽は何かしらの盤を買って聴くものという意識が奥底に刻みこまれているからなのだけれど、それにしたってもうちょっと気軽に楽しめないものかね、と自分にあきれるばかり。

とりあえずいろいろと試してはみたのです。最初はよかったのですよ。あれも聴ける、これも聴ける、そういえば気になってたんよなアレ、とかそういうのを手当たり次第、手元の操作だけで容易にアクセスして楽しめる。でも、ずっとつきまとう借り物の感覚。このアルバムええやんか、と集中的に聴いていても、違う作品に興味を持って、そこからさらに別のものに興味を持ったら、気に入っていたアルバムの存在が意識から消えている。それもこれも所有していないから。

私のミュージックアプリには所有しているアルバムが並んでいます。すべてのアルバムは入りきらないので、最近買ったものから順番に、ちょっと古いものとか、久しぶりに聴きたいなとデータ格納用ハードディスクからインポートしたりCDから取りこんだものたち。このライブラリへの思い入れが、所有しているかしていないかでまったく違う。

買ったものならライブラリを見返して、買うだけ買ったけどあんまり聴いてなかったなあと思いだして一年後に急に聴きまくる、などということもあるのですが、サブスクリプションでは一度埋もれるとそのあとは手を伸ばさなくなる。飽きたらその音楽はそこで終わり。たぶん買ったものなら、もうちょっと長く聴いているはずなのに。あくまで私の場合は、やけどね。

ゲームでもそういう傾向があって、私はXboxのゲームパスに加入しておりまして、それはもうたくさんのゲームが用意されているのですが、30分遊んでおもしろいと感じなければもういいやとやめてしまう。最近はFPSでそういう現象がよく起こっていて、この場合も、もし買っていればもうちょっと遊んでみようとなるし、遊んでいるうちに楽しくなってくるものなのに、このゲームはもういいやという結論にいたってしまうと二度と起動しない。以前から気になっていたゲームとか、シリーズもので続きをやろうと考えていたものですら、実際にさわると気持ちが乗らないことが多くて。

一方、購入というところでいうと、何年か前にダークソウル3というゲームに手を出してしまいまして。これがもう信じられないくらい難易度の高い、おぞましいほどのトライアンドエラーを要求するゲームでして。

最初のボスから途中で変形するわ体がうねうねの触手になるわ攻撃が激しくなるわで、おれはこれ無理だわとコントローラーを放り投げてもなお、何かがひっかかったのか単純に悔しかったのか、最初のボスだけは倒そうと踏みとどまり、二十回どころじゃない挑戦のすえにようやく撃破すると、あたりまえのようにその後もゲームを進めていって、先へ進むたびにできるこんなもんと叫び、それでいてこっちはちょっとずつしか成長せず、ボスのたびに嘘やろと悲鳴をあげて、それなのに一週目をクリアしたら迷うことなく二週目に突入して、二週目もクリアして、というありさま。

のみならず、その後は同じ会社のブラッドボーンというゲームにも手を出し、ダークソウルも1と2にさかのぼって遊び、まあ簡単に言うと完全にはまってしまいまして。もしゲームパスでさわっていたら、最初のボスの時点でやめていたかもしれないと思うと、買って所有しているかどうかは楽しむうえで大事な要素なんだよなあと。

買うという行為の有無で娯楽作品の価値が変わる、などと言ってしまうと、売れない物書きの自分は壁に頭を打ちつけたくなるくらい悲しくなるのだけれど、買った本と図書館で借りただけの本では読もうという気持ちに違いが生じてしまうのも事実なわけで。だから、手に取ってもらい買ってもらうためにはどうしたらいいか、というのは常に意識しておかないと、と思うわけです。

とはいえサブスクリプションは悪だ、購入という行為を否定する堕落だ、などと否定するつもりは毛頭ありません。もしXboxゲームパスに加入していなければ、そのゲームパスに入っていなければさわらなかったゲームというのも実はありまして。それがニーア・オートマタというゲームなのですが、ゲームパスに入ったのならやってみようときわめて軽い気持ちでふれてみたところ、すばらしかったのです。何がすばらしいって、音楽が。操作している途中で流れる音楽がいちいち耳に残って、それはそれはすばらしいのです。なのでクリアしたあとはSpotifyでサントラを何度となくくり返し聴いちゃったりもして。新しい作品と出会うための手段のひとつとしてサブスクリプションっていいサービスだよな、とか思ったりもしているのです。

もしも将来、自分の長編がサブスクリプションサービスに組みこまれたとして、私の書くものにさほど興味がない、何となく読んでみようかなという読者に、これはおもしろいぞと続けて読んでもらえるのか。好きな作品として選んでもらえるのか。いつかそんなときが来て、現実をつきつけられたらどないしよ。などと、いくぶん不安になったりもしています。

2021.6.8
CSのJ-SPORTSチャンネルでやっていたWRCを、深夜に酒を飲みつつ観ておりまして。

そもそもラリースポーツというのは昔にセガラリー・チャンピオンシップというゲームをやっていたぐらいしか接触がなく、ほぼ何もわからない状態での視聴だったのですが、それにしたって実況のアナウンサーさんの情報量が恐ろしく豊富で、すっごいの。

番組ではコ・ドライバーの(助手席に座ってノートを見ながら「ターン・レフト、イージー」とか運転者に指示を出す)かたがゲスト解説として出演されていたのですが、そのアナウンサーさん、「好きなコ・ドライバーのかたはいらっしゃいますか」という質問を投げたと思ったら、自分が好きなコ・ドライバーの名前をあげて、解説のかたに「渋いですねえ」と笑われたり、フィンランド語の指示は聞き心地がいいみたいな話で盛りあがったり、内容がとにかくディープ。現役のドライバーの名前も知らないワタシからすれば、番組内の話は五割ぐらいしか理解できないというありさま。

でも、それが知的好奇心をくすぐられてしまいまして。

知らないことを楽しそうに話している。場合によってはよくわからんわと聞き流すようなものなのに、興味がどんどんわいてしまう。チャンネルを変えられなくなる。こういうの、いいよなあと。

小説でも知識とか情報を読む楽しみってあると思うのです。説明をやりすぎてはいけないけれど(そしてワタシはいつもいつも書きすぎてしまうのだけれど)、やっぱり創作物で、お語なのだから、読者の知らない世界を構築して、興味を持ってもらって、こっち側にひきずりこみたい。書いていてそんなことを考えるのです。

だからこそ、本を出すのなら読む側に興味を持ってもらえるよう自分自身が楽しんで書かないとね、と気持ちをひきしめながら焼酎を飲んだ深夜、という話でした。

2021.6.3
小説の案が次から次へと湧きあがっている今日この頃。

昨日から題名とおおざっぱなネタが二本くらい出てきて、もう一つ、数年前から温めていたものが急に形になって現れてしまって、さてどこから手をつければよいのやらと思案中。それとは別に縄文の文化を使った物語を書きたくて骨格に取り組んでいるのだけど、これがまた我ながらあきれるぐらい、影響を受けまくった朝日ソノラマのヤングアダルト小説みたいになりそうで、影響を受けまくったのは事実なのだから隠すことなくやったるかと思う自分もいるし、いやもうちょっと需要とか時代の要求に応えるような小説のほうが、などとできもしないマーケティングリサーチみたいなことに気持ちが向いたりもしている現状。

そのマーケティングリサーチ的な思考の中で、縄文だったらこういうのもありかもしれないと浮かんでしまったネタがこれ。

『縄文ガール』

題名から想像できるとおりの考古学青春もの。考古学研究室に所属する大学院生の、縄文中期への偏愛と、こじらせにこじらせた青春物語。もちろん血も暴力もない。憎しみのぶつけ合いも、たぶんない。はい、すみません。オイラに料理できるはずもない。というか、なんかすでにありそう。と思って検索したら、漫画やけどすでにあったわ。そっちは縄文時代の少女の話みたいなので、じゃあこっちは現代ものなので『縄文に恋をしてしまったけど文句ある?』あたりで。オイラのセンスのなさったら。

以前四国だったかの、移転する水族館を取材したドキュメンタリーが放映されていて、別の水族館から運ばれてきた魚を見た職員の若い女の子が、ぱっと見ただけでなんという魚か言い当てて、それが聞いたこともない名前で、その魚を見るなり「かわいい」と眼を輝かせていたのですが、もう完全な魚オタク。そういうのってすごく魅力的。

どうせ縄文青春ものみたいなのをやるなら、そのくらいの知識と情報をまず仕入れてから、徹底的な考古学オタクをつくりあげないとなあ。やるならせめて三内丸山遺跡の取材くらいはせんとなあ。などと考えるようになり、一気に執筆へのハードルがあがってしまうのです。物語づくりって大変。

縄文青春ものはともかく、優先的にやりたいことは決まっているので、まずは気持ちを切り替えてそっちに集中せんと。仕事としての具体的な「次」は何も決まっていない宙ぶらりんの状態なのだけどね。

2021.5.31
ソーシャルメディアにおける距離について。

などと大仰な書きだしですが、端的に言うと私の著作についてのつぶやきに、突然書いた本人が現れて挨拶するのって、はたしてやってもいいものなのかどうか、ということ。

物書きで、ソーシャルメディアをうまく使っているかたもいらっしゃいます。ご自身の著作についてのつぶやきに、買ってくれて読んでくれてありがとう、という趣旨のリプライをしていたり、書店員さんといろいろなやり取りをしていたり。それはそれはうらやましい光景だなあと思うのです。ただ、オイラにはできない。

社交性はそれなりに持っているつもりです。感想などのお言葉をいただければ、喜びつつ尻尾を一回転させつつ感謝の意をこめて返事をします。そういうやり取りにはいっさい抵抗がないんです。でも直接投げられたわけではないつぶやきにまで姿を現して言葉を交わすには、ちょうどいい距離感が私にはわからないのです。

というのもソーシャルメディア上で言葉を交わし、それがきっかけで仲良くなり距離が近くなろうものなら、もし次の作品があんまりおもしろくなくても「おもんないねん」って私に言いにくくなりません? 私のことですから、とんでもなくわけのわからない文章を書くこともあるのです。どうにもならない物語になってしまうこともあるのです。そんなとき、お世辞で「おもしろかったです」とは言いたくないはずです。そんなことをされれば調子に乗ります。調子に乗ったあげく、ひっどい本を書いてしまいます。まちがいなく。

打たれ強いか打たれ弱いかと問われると、完璧に打たれ弱い人間です。長年のつき合いであるうちの相方から「ライオンの皮をかぶったチワワ」と例えられる程度にもろい人間です。自分の本への批判とか、眼にしただけでへこみます。「まあまあやな」ぐらいの毒にも薬にもならん反応ですらがっかりします。

そんなオイラですが、せっかく本を世に出していただく機会を得ているのですから、毎回真剣勝負をしたいのです。自らの分もわきまえずに言いますが、力ずくでも楽しんでもらいたいのです。そのため、執筆に時間をかけてしまっているのです(これは反省点)。

という理由で、ソーシャルメディア上でこちらから積極的に挨拶をするということは控えさせていただいております。もしかしたら冷たく薄情な人間に思われるかもしれません。自分の本への感想などは本当に嬉しいのです。感謝しております。それはもう心の底から。そのことだけご理解いただければ幸いです。

とはいえ、エゴサーチをするだけしていっさい反応しないのもなあ、と。興味を持って手に取って読んでいただいてありがとうございますという気持ちをちょっとお伝えしたいのも本音でして。

そんなわけで、現時点でできることはひとつ。「いいね」です。ちょっと前にソーシャルメディアを批判していたのにね。こういうところだけは都合よく機能を利用させていただきます。私からの「いいね」がついたら、「ああ見とんねんな」ぐらいに思ってやってください。

2021.5.26
落款印を彫ってみた。 石を買い、彫刻刀を買い、見よう見まねで転写して、削って、削って、粉まみれになりながら削って、やすりをかけてサンドペーパーをかけて、何とか怪我もなく終わらせました。

雑な加工からの、
こんな感じ!
どう? ええよね? 悪くないよね? それなりにいけてるよね? はい、自画自賛モードに突入しております。もちろん雑やし下手やし、篆刻印ではないんやけど、いい雰囲気が出てるやんか。いや、もっとひどくなると思っていたからさ。意外といけるやん、と。

とはいえはじめての試みだったので、反省点もあり。今回は備忘録もかねて書いておきます。

反省点1「石が硬い」

今回は遼凍石という中くらいの硬さの石を、見ためと若干の見栄で選んだのだけれど、すなおに小学校の教材用で売られているいちばんやわらかいやつを選んでおけばよかった。刃が進まない。とにかく進まない。

反省点2「オレに印刀は扱えない」

印刀、難しいっす。石の硬さもあって全然うまく使えない。素材が石である以上、もちろん均一じゃなく、途中で小さな粒のような塊と遭遇しては進まない削れないと四苦八苦。最後は鉛筆持ちにして自分の方向に走らせてはごりごり彫るというありさま。あの、彫刻刀は自分に向けたらあかんからね。念のため。でも、あかんとわかっていてもそうせざるをえなくなり、刃物の扱いはどんどん荒くなって、ついにはがりっと石をえぐってしまい。それがこちら。

『門』のところがなくなって。
ここで発見1「三角刀はめっちゃ使いやすい」

途中から三角刀を使いだしたら、意図した図柄からはかけ離れたけれど、こっちのほうがだんぜん扱いやすく。最初から三角刀にしておけばよかった。ちなみに、どうせオレのことだから一度は失敗するだろうと思い、同じ遼凍石をもう一つ買っておいたのです。上のやつはお試しということで。

反省点3「転写がうまくいかない」

ワールドワイドなウェッブをさまよっては情報を探して、どうやらレーザープリンターで印刷した紙とマジックインキを使えば石に図柄が転写できるという。ほほうこれは便利だと試したのだけれど、写りがうっすいの。

石が黒いせいか。コンビニでコピーした用紙を使ったのだけれど一晩置いてしまったのがよくなかったのか。はたまた根本的にやりかたを間違えていたのか。結局、うっすらと写った文字に三角刀をあてがい、勘と即興で彫るしかなく。このあたりはもうちょっと考察しないと。

反省点4「粉塵」

あたりまえですよ。石なんだもの。石を削ったり磨いたら粉ぐらい出ますよ。そりゃあもうたぁんと。室内でこんな作業をしようものなら、オイラの命綱であるMacBookProは一瞬でサヨナラですよ。試合終了ですよ。もちろん粉塵の想定はしていて、ベランダで作業をしたわけですが、今の季節だからいいけれど冬じゃ絶対にできんよな、と。それと、マンションの狭いベランダでは作業場など確保できるはずもなく、新聞紙を敷いてそこにあぐらをかいて彫ってみたのだけど、ずっと背中を丸めて(しかもお試しと合わせて二個分)の作業だったから腰が痛いのなんのって。作業台は必要。

ともあれ、楽しかったです。新しいことを試すのは楽しいね。出来はともかくとして。いや、このぐらいの手作り感があったほうが味わいが出るかなとも思うのです。そりゃあ職人さんに頼めば見栄えのいい、きれいで、格好いいものをつくってくれるでしょう。でもせっかく自分の本に自分の名前を刻むためのものなのだから、誰かにゆだねて格好つけるのではなく、いびつでも格好悪くても自分の手でなしたもののほうがいいかなとも思うのです。

世に放たれた新作のすべてにこの印鑑を押してまわりたい気分。けっこう満足。あ、そうそう。今回の石は少し大きめの、30mmの正方形のものを使いました。

2021.5.24
今日は、いいや今日にかぎらずけれど、基本的にひとりごとなので人名は敬称略でお届けいたします。

東京オリンピック・パラリンピックは中止すべきという声が大きくなっているようで。

個人的な意見を述べるなら、開催しないほうがいいんちゃうかな、というぐらいのいくぶん消極的な反対。だってぼろっぼろやもの。開会式だか閉会式の演出のごたごたといい、選手へのワクチンの優先接種の是非といい。やるんやったら現在の状況から最良の方法を取捨選択して、こういう形でやります、と道筋を示してくれないとね。これはもう無理やろという雰囲気になるのもしょうがない話で。

だけれど、ソーシャルメディアなどを通じて「今、オリンピック・パラリンピックをやる必要はない」とか「こんな状況で日本人が金メダルを獲ったって誰も喜ばない」みたいな意見を間接的に眼にしたので、それについては異論がありまして。

スポーツというものにどこまで縁がなく、何をやっても楽しいと思えなかったワタシですが、観るのは好きでして。ワールドベースボールクラシックで日本代表が優勝したときは声をあげてこぶしを握ったし、サッカーワールドカップで日本代表がベスト16に残ったときも、グループリーグで一喜一憂したし。あのときは、たしか本田圭佑の無回転フリーキックだったかな。

競技というのは真剣勝負です。冷酷なまでに勝者と敗者が決まるものです。だからこそ心を奪われるのです。応援している選手が勝った瞬間には感情が爆発しちゃったりするわけです。

かつてプロレスリングノアにあがった鈴木みのるは当時のチャンピオン杉浦貴に向かって、(東日本大震災で)被災したプロレスファンを元気にするのはプロレスなんだ、プロレスじゃなくちゃいけないんだという趣旨の檄を飛ばしました。それだけの力がプロレスにある。ファンの一人としてワタシもそう信じています。

スポーツだって同じ。こんな状況で開催すんなや、と思っていても、いざ始まったらみんな、競技に眼がいくよきっと。放送を観て、日本代表の決勝進出で期待がふくらんで、メダルを獲得したら喜びで胸がいっぱいになるよ。もし池江璃花子をふくむ代表チームが400メートルメドレーで金メダルを獲ったりしたら、日本中が歓喜に包まれて、みんなが笑顔になるはずだよ。

もちろん感染の拡大を食いとめるのが最優先だから、その中であきらめなくちゃいけないこともあるわけだし、どこぞの誰かのゼニモウケのためとか、どこぞの権力者のメンツのために強引に開催するぐらいなら、せえへんほうがいいのだけれど、競技そのものの否定はしてほしくないな。選手に辞退しろと投げかけるのも、してほしくなかったな。

しかし、本当にやるのかね。やれるのかね。頭ごなしに反対するのって無責任だし個人的にもおもしろい行為とは思えないので、じゃあ開催するとしたらどういう形なら可能か、というのをちょこっと考えてみたけど、やるとすれば無観客が大前提。それぞれの競技を細かくテレビにて放映。会場は東京にこだわらず全国に分散させる。幸いこの国には、地方ごとにやたらと立派な体育館やら運動施設が建設されてきた過去があるので、それらを使えばあるいは。ま、机上の空論ですが。

どうであれ、緊急事態なのだから、決断はすぱっとしてほしいものです。

話は変わるけれど、新型コロナ対策を勝ち負けで語っている論説だか報道もどこぞで見た。新型コロナに負けるな。我々はこの困難に打ち勝つんだ。みたいな論調。こういう考えって感染者への差別に向かわない? せっかく我々が新型コロナと戦っているのに感染するとは、なんというざまだ。感染対策もせず遊び歩いて居酒屋で宴会なんぞやっているからだ。我々の戦いの邪魔だ。ぐらいになっちゃったりしない? 名前も知らない通りすがりのマスクなし人間とか、テレビで「感染したときはしたとき」と平然と口にする連中に怒りを覚える前に、とりあえず自分と大切な人を守ろうぜ。各自がその意識を持っていれば落ちつくよ。もちろんワクチンなり治療薬も必要だけど。

勝ち負けで熱く論じるのはプロレスと格闘技だけでええわ。

2021.5.17
急に篆刻印が欲しくなりまして。

一応物書きなので、自分の本にサインをすることもたまにあるわけです。ただ、最初に自分の本にサインをしたのは二十歳のときで、完全に若気の至りなのだけれど、アルファベットでしかも筆記体なんぞでサインを書いちゃっていたのです。はい、至りに至った若気っす。

『ワーカー』のときにサインを変えようかなとも思ったのですが、過去をなかったことにして大人ぶる姿勢は、それはそれで格好悪いわなと、当時のままアルファベットの筆記体のまま書きつづけているのですが、やはりというか、当然ながら読みにくいわかりにくい。

じゃあサインに印鑑をつけるのはどうや。御朱印みたいなものや。アルファベットの筆記体の手書きに、重ねるようにして朱色で、漢字の自分の名前の印鑑。それや。

と、ここまではすんなり考えがまとまって、はてさてどれぐらいの値段がするのかと調べてみたら、安いゴム印から土台がきらっきらしている高いものまで、種類がそれはもう豊富。でもそれらはデザインであまり口出しできなさそう。売れてもいないくせに自作の表紙にいろいろと注文をつける、編集サイドにとっちゃそこそこ面倒なワタシです。印鑑のデザインにだってそりゃあもうこだわりたい。

そこでさらに調べてみると、篆刻印の手作りセットなるものが販売されているらしい。そういえば小学生だったか中学生だったかぐらいの授業で、彫刻刀を使って印鑑をつくったことがあるやないか。よし手作りだ。その授業以来、彫刻刀なんぞさわったこともないけれどやってしまうか。となり、さっきまでデザインを考案していたのだけど。

これがまた難しいもので、篆刻印で使われる篆書体というフォントでワタシの名前を出してみると、「関」はまだしも「俊介」が原形をまるっきり留めていない。「関」の一文字だけという案もなくはないけれど、角印では姓名が表記されているほうが見栄えがいい。心身ともにすでに薄汚れてしまった、よごれっちまった悲しみのワタシ。印鑑ぐらいは美しくありたいさ。

では篆書体以外のフォントを使うのはどうか。その場合、篆刻印ではなく落款印という扱いになるのか? このあたりの定義はよくわかっていないけれど、とりあえず角印を想定して文字をこねくり回してみよう。で、やってみた結果、いちばんしっくり来たのが太字の明朝体というね。いや、手彫りやで。整然とした明朝体の雰囲気を、慣れない彫刻刀の手さばきで出せるのかと。そもそも手先がおどろくほど不器用なのに。やれるんか、やれるんかオレ。だったら筆文字で手書きで組んでみて、それを石に彫ったほうがいいんじゃないか。いいや、そっちのほうがよっぽど難しいがな。

などと悩みつつ具体的な決定をくだせないまま、不器用な手先と経験不足を露呈しつつ落款印をつくってみます。もし何日何週間も経ってなお印鑑という言葉が出てこなかったら、あいつあきらめやがったな、と察していただければ。

2021.5.13
ソーシャルメディアのおかげで自分の意見を気軽に発表できるようになった。それはとてもすばらしいことだと思う。知らないことを知る機会になり、気づきにもなったから。しかしいつからか、是か否だけの極端な意見を眼にする機会が増えた。そんな気がする。

それらの極端な意見は本当に、投稿者の率直な気持ちなのだろうか。どこかでねじ曲げられていやしないだろうか。もちろん最初は本心で語っているだろう。でも、たとえば政権を批判する意見を投稿して、そこにいつもより多くの「いいね」がついたら、以後の政権批判の投稿に影響はない? 同調するリプライをもらって、「いいね」がどんどん増えたら、政権与党のやることなすことすべてを否定するようにならない? 逆もしかりで、現内閣はよくやっている、この政策はすばらしいと投稿して、そこに多数の「いいね」がついたら、政権与党のやることなすを称賛しはじめて、現政権の政策にことごとく反対する野党などこの国に必要ない、とか言いだしたりしない?

もっともっと「いいね」が欲しくて、過激になったりしない? ワタシはきっとそうなる。はっきり言う。ワタシは「いいね」が欲しい。ひとつの投稿に対して三億「いいね」ぐらいほしい。嘘をつくつもりはないけれど、より多くの「いいね」がつくとわかっている表現が明白なら、そっちに向かうかもしれない。たとえ過激で先鋭化した意見の表明であったとしても。すみません。誇張です。そんな眠たいことやってられるかっちゅうねん。でも人間心理として、ありえるでしょ。

オリンピック・パラリンピックの開催について、開催に賛成だけれど感染対策をちゃんとするのが前提条件だという意見の人はいるだろう。開催には反対だけれど無観客とか感染対策を徹底するのならあるいは、という意見の人だっているだろう。そこには正しいとか間違っているという概念はなく、賛成か反対かだけで片づけられない。そもそも人間の感情と思考はそんな単純じゃないやんか。

昔、戦艦のプラモデルを買いに来たお客さまがいて、おじいちゃんで、自身の経験もふまえて戦艦について熱く語っていたのだけれど、その話の最中に真顔になって「でも戦争は絶対にだめ。やっちゃだめ」とおっしゃられていた。戦艦が好きな反戦主義者がいたって別におかしくない。それが人間だよ。

簡単に是と否で敵味方に分けてしまったら人間の本質を見失う。自分とは違う他者を容認してようやく、人間は群れとして成立する。そうしてはじめて民主主義が意味を持つ。そんなふうに思うのです。

2021.5.11
こびりついた偏見というやつは、なかなか洗い流せないもので。

「男らしさ」とか「女らしさ」なんてただの概念にすぎなくて、もっと言うと幻想で、血液型占いぐらいの薄弱な根拠に基づいた共通化でしかない。と以前から思っていたはずなのに、文庫化で『ブレイン・ドレイン』を読み返してみたら、自分でも驚くほど男とか女という括りで表現している箇所があって。なんでこんな書きかたをしてしもたんやろ、としばし頭を抱えたすえ、文庫化にもかかわらずそれなりの部分に赤を入れてしまったワタシ。物語そのものは変えていないけど、表現はいくつか変えています。

性別に基づいた「らしさ」を幻想と言いきるのは、受け手によっては反発を招きかねない言い草なのだけれど、これはそうであってほしいというワタシの願望によるところも大きく作用していて。はっきり言うと「男らしさ」とかやめてくれい、と。

もうさ、本当に嫌なんだよ。「男とは」「男らしく」「男なら」そんな言葉に埋めこまれたマッチョイズムがさ。常にタフネスを競う感覚も、我慢や忍耐を「男なんだから」という圧力とともに強要する文化も。我慢とか大嫌いなんです。

しかしながら、そういうこびりついた「男らしさ」はワタシにもあります。会話の中で不意に「らしさ」の幻想に基づいたことを言うこともあります。「血液型は何? A型? だと思った。だって几帳面やもん」ぐらいの雰囲気で。無意識にやってしまうことはままあります。

ただ、オレはもうそういうのはいいや。

「らしさ」に縛られてやりたいことができなくなるのはごめんだ。ワタシは散歩中などで出会った大型犬には恥ずかしげもなく手を振りたい。その犬と飼い主の許可があればふれたい。「かしこいな〜かわいいな〜」と赤ちゃん言葉になりながらなで回したい。傍から見れば気持ち悪いだろう。でもそれでいいのだ。だが、気持ち悪いという感情と感想は、関俊介という個人に向けてぶつけてもらいたい。小汚いおっさんのくせに、とは言わないでいただきたい。小汚いおっさんだって相好を崩しに崩して犬とたわむれたいんや。

とか言いつつも、「小汚いおっさんのくせに」と自虐で口にすることもあったりしちゃったりして、そこには「おっさん」という概念からの「男らしさ」の幻想をひきずっていて、やっぱりこびりついているよなと反省してしまう日々です。

2021.5.10
ホンダが、グローバルで売る新車を2040年までに電気自動車と燃料電池車にする、という目標を打ちだしたそうで。

環境問題が眼につくたびにうさんくさいものを感じてしまうのは、間違いなくマイケル・クライトンの影響。いわく「科学はすばらしいけど、人間ごときに地球の活動の何もかもが理解できるわけないやろ!(ものすっごく意訳)」とのこと。

当初は地球温暖化と呼ばれていて、温暖な気候になるんやったら冬の雪も厳しくなくなるんちゃうの、北海道の広大な大地を生かして麦と大豆の生産を増やしたらいいんちゃうの、小麦を植えるなら二毛作にできるし、食料自給率があがるやん。などとのんきに考えていたワタシ。最近では動物性たんぱく質信仰が崩れつつあり、かのアーノルド・シュワルツネッガーさんですらベジタリアンになって、コレステロール値がはじめて105になったよハハハ、とかおっしゃっているのだから、今こそ植物性たんぱく質やんか。大豆やんか。とかね。

そうしたらいつのまにやら温暖化という文字はちょっとばかり弱くなり、かわりに気候変動という幅広い解釈のできる言葉があふれてきて、グリーン経済という言葉も聞かれるようになって、そうかこれは経済政策なのか、新たな産業革命を起こそうとしているわけだ、という見方になり。否定的な意味ではなくてね。環境問題という名目で各企業は開発を急ぎ、投資家は新技術に投資し、税金も投入されるだろう。大学にも研究費が注がれるだろう。そうして創造された技術やら価値が新たな経済発展を生み、結果として景気の向上につながる。ということなら、むしろ歓迎やもの。

ホンダの戦略も次の世代の主流になるはずの電気自動車に一足飛びで行っちゃおうという思惑なのだろう。そもそも初期の四輪車というのは電気で動いていて、技術競争でガソリンエンジンに負けたらしいから、今回の電気自動車への流れは初期の方向性を取り戻したという見方もできる。すでにポルシェだったかフェラーリだったかランボルギーニだったかは超高級の電気自動車をつくっていて、その金額に見合う運転性能があると、BBCの名物番組トップギアでやっていた。酒を飲みながら観ていたので記憶はあいまい。

ではホンダの電気自動車とはどのようなものか。ホンダらしいモーターを積んでくるのかな。とか、ホンダ車を所有したこともないのに期待しているのは、ワタシがレースゲームをさわるたびに必ずシビックを手に入れているから。

しかしこのままグリーン経済が進めば、希少金属を安定して発掘しなければならないという問題も出てきそうで、化石燃料に続く資源競争が起こりそうで、時と場合によっては戦争にまで発展するかもしれず、結局人間ってのはそういうものなのかもしれない。すでにそういうことは起こっているのかもしれない。などと悲観しそうになるが、いやいやまだ早い。我々には最後のフロンティアがある。宇宙だ。宇宙に出て、希少金属が大量に眠っている惑星を見つけて、惑星を丸ごと爆破して採取するのだ。そのために宇宙船を建造するのだ。名称はもちろん石村号だ。石村号で宇宙に飛びだすんや(傑作ホラーシューターDEAD SPACEより)。

こんなしょうもないことをなぜつらつらと書いているのかというと、文庫版『ブレイン・ドレイン』の再校ゲラを今日送り返したので、その解放感からつい。

2021.5.9
緊急事態宣言が延長になり、ついでに地域も追加されて、まん延防止等重点措置の実施区域も増えている昨今。

新作が5月25日発売ということで、見事に直撃を食らってしまったわけで。じゃあ緊急事態宣言がなかったら店頭で大きく展開していただけるのかと言うと、ワタシの身分ではけっしてそんなことはなく。そういう意味ではどうせ影響は軽微ですからと気持ちを腐らせながら言いたくもなるのだけど、前作『ブレイン・ドレイン』の単行本が刊行されたときに、仕掛けたいと声をあげていただいた書店が実はありまして。

おかげで初版が少しだけ増えるという恩恵を受けた身としては、この状況じゃ仕掛けたいとも言うてもらえんよなと、さらなる腐り根性に陥りかねない次第。

とはいえ怒りをぶつける相手もいないから、せめて百貨店とか大型商業施設で飛沫感染が少ないところは営業を許可してくれよ、書店でぺちゃくちゃしゃべったりせえへんって。と勝手なことをのたまうばかりなり。

いちばんおそろしいのは、このまま埋没すること。どういう形でもいいから、必死になって書いたのだからどこかに刺さってくれ。と願う日曜あけて月曜の深夜。

文庫版『ブレイン・ドレイン』の再校ゲラを片づけつつ。

  
 

2021.5.7
ツイッターを埋めこんだら隣に隙間ができて、どうやって埋めようか色々思案すれど思いつかず、苦しまぎれにこっそりつぶやく場所としてみました。その名も、ひとりごと。「いいね」をつけてもらえない環境で、今どきページに直接の手打ちという旧態依然っぷりに我ながらあきれつつ。

問題は、つくったのはいいとして、ひとりごとを継続できるのかという一点で。これまでも、これはいいぞツイッターでつぶやいてみようなどと思いつくたび、でも執筆中の物語に放りこんだほうがおもしろくなるかもしれないと悩みはじめて、結果としてつぶやくことなく、さりとて物語に押しこむのも忘れ、というのをくり返し、ツイッターの更新がおろそかになってきたワタシ。

今後、どれほどの頻度でつぶやくのやら。とはいえ、得体の知れない勢いで巨大化したソーシャルメディアに表現をゆだねるのはいくらかもやもやしているのも事実なので、こういう、自分勝手に言葉を吐く場所もあったほうがいいかもね。と自らに言い訳をしつつ、のんびりやります。